運針の遺言書
声を出したのは眠っている二人のいずれでもなかった。
女子学生も女性も寝息をたてている。
よほど疲れていたのだろう。
無理もない。
女性は思いつめたように激情にかられて、持ちうるエネルギーを全て、指から結婚指輪と思しきリングをはずすためにナイフを突き立て渾身の力を込めるという無茶な行為に注ぎ込んでいた。
知り合いらしき女子学生は、暫庫屋と関わりのあるおかしなものに振り回されているのかこちらも思いつめたように暫庫屋を問い詰めていた。平時は飄々とした風情でいるが商いが絡むと相手に畏怖さえ感じさせる押しの強さがある暫庫屋が相手ではさぞや疲れたことだろう。
未だ二人の履歴や関係についてはわからないが、何らかのつながりで懇意にしていることは鳳神社の三の酉の市での出来事からわかっている。
あの時も、そして今も、なにものかの声がした。
神社での声は女性の発した声だと思われたが、実のところ確証はない。
今聞こえた声が二人のものでないとなると、どちらも人間のものではないのかもしれない。
「やはり、ここでしたか」
真乎はつぶやくと、女性がまとっている古裂のランダムキルトの先ほど糸を縒って繕った場所に手を添えた。
真乎の指は再び綻びかけている部分に指先を入れてきれいに整えた爪を器用に当てて、糸を切らないようにていねいにはずしていった。綿や麻、藍染や草木染めといった素朴な古裂で構成されているデザインの中で、その部分だけ華やかな友禅模様の絹が使われていた。
「勝手にほどいてしまっていいんですか」
沙綺羅が慌てて止めた。
「ここにいるんです、掬わなければならないものが」
真乎は手を止め鵜ることなく答えた。
「ここって、布にですか」
「布と関わりのあったものの残滓です」
真乎は糸をほどききると、友禅の古裂を地の布からはずした。
「ごらんになってくださいな、沙綺羅さん」
そう言って真乎は古裂を裏返して見せた。
絹の古裂の裏には麻布が縫いつけられていた。
やわやわとして肌触りはよいが生地としては弱い絹を補強するために麻であて布がしてあるのだろうか。
麻布には補強なのか刺繍のように糸がびっしり縫いつけられていた。
「刺繍ですか? でも玉結びが見えてますし、模様にも見えないですけど」
「こうしたらいかがでしょうか」
言うなり真乎は友禅の古裂と糸が縫いつけられている布を引きはがした。
ぴりりっと小気味いい音がして布は2枚に別れた。
ふわりっ、と古いお香が燻った。
樟脳ではない、人肌に触れて奥ゆかしさを増した典雅なお香の薫り。
「なにかなつかしいにおいですね。着物のたんすを開けた時とも違う、なんでしょう」
うっとりと目を閉じ記憶を辿るようにしてから、沙綺羅は言葉を継ぐ。
「古いから生地が傷んでるんじゃないですか、だいじょうぶですか、そんな風に扱って」
沙綺羅が言うのをどこ吹く風で、真乎は引き裂いた布を2枚裏側にしてひらひらと振って見せた。
「沙綺羅さん、こちら、何に見えますか」
「何にって、友禅の方は模様の裏側です。麻の方は、え、それって刺繍じゃなくて、何か文字が糸で縫いつけられているのですか」
「メッセージみたいですよ」
「メッセージ?」
「ご遺言かもしれません」
「それは、ずいぶん手のこんだことを。人目に触れてはまずいことを記録したのでしょうか。でも、遺言でしたら、見てもらわないことには意味をなさないですよね」
沙綺羅の言葉に真乎は「そうですね」とうなずきながら友禅と麻の歪んだ四角形の古裂をローテーブルの上に並べた。
「こちらの古裂ですが、友禅のように見えますが、少し違うように思います。京友禅は江戸中期に興ったものですが、これはずっと古いものです」
「友禅自体は古くからあったものなのですか」
「染色技法は奈良時代には伝来していたとされています」
「日本史で習いましたね、なつかしいです、仏教伝来に正倉院の宝物」
「正倉院の宝物には服飾、装飾品、敷物、さまざまなものが植物染料で彩られていました。異国情緒溢れる更紗模様は、日本では和更紗として絹に描かれていました」
「え、もしかして、これは友禅ではなく和更紗?」
「それは断定できません、見ただけでは。ただ」
「ただ?」
真乎は糸が細かく縫い付けてある麻の古裂を指さすと、
「これ、襤褸々々団の端切です」
「え、ぼろぼろ? 襤褸布の襤褸ですか」
「はい、いいえ」
「どちらですか」
「どちらも、です」
「ええっと、よくわかりません」
「わかっているのは、友禅もどきの絹も麻布も襤褸々々団の一部で、鎌倉時代からのメッセージということです」
「鎌倉時代?! 」
「はい。ですから、先ほどの声は、襤褸々々団の断末魔、いえ、怨嗟の、いえいえ、懇願の叫びだったのではないかと思われます」
「古い布が叫んだってことですか。それって、猫ちぐらにドロタボウが憑いてたみたいなことですか」
「もともとの襤褸々々団は、憑きものや怪異とはちょっと性質が違うものなのです」
「人の迷いに憑くものではないんですか」
「そうですね。憑くは憑くのですが、人の方から憑いていってしまうのです」
「人にとり憑くのではなくて、人がとり憑くってことですか」
「人が身につけていたものが変化するのです、そうですね、人がそれを身につけなければ生まれないものではないかと思われます、私見ですが」
混乱している沙綺羅に真乎は「落ちついてください、沙綺羅さん、今度は私がお茶をいれますね」と言って立ち上がると、水色のきれいな和紅茶をいれて酉の市で買った切山椒を添えて持ってきた。
「おいしいです、切山椒、ぴりっとして甘くて。和紅茶にあいますね」
「味わっていただけてうれしいです」
真乎も一緒に味わうと、居ずまいを正した。
そして、おもむろに話し出した。
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