ナチュラルと自然

 開け放たれた戸の奥から鼻歌が聞こえてくる。

 庚之塚沙綺羅こうのづかさきらは足を止めると深呼吸をした。

 グレーのロングTシャツにジーンズ、肘や胸ポケットにチェックのパッチワークが施されたダンガリーシャツといったラフな格好をしている。沙綺羅の動きやすさメインの時のスタイルだった。


 「小間物屋てりふり」


 入口の脇にたてかけられている一枚板の店名の彫られた銘板はきれいに磨かれている。

 その上に掛けられた木札には達筆で「開いてます」と墨書きされている。

 裏を返すと「閉まってます」と書かれている。

 勢いのある美しい筆運びだ。


「達筆の家系」


 そう呟くと沙綺羅は戸をくぐった。


「こんにちは。真乎さん」

「あら、沙綺羅さん、おはやいですね、もうそんなお時間でしたでしょうか」


 店の奥から口のまわりを白くした翠埜真乎が顔を出した。

 藍染のお洒落着風割烹着姿で豆大福といちご大福を手にした真乎がこちらにやってきた。

 ごきげんな理由はそれか、と沙綺羅は真乎が両手に持っている大福から自分が手にさげている和紙の紙袋の中に目を移した。

 真乎が甘いものに目がないのを知っているのでいつも手土産はスイーツにしている。甘味とスイーツ、和菓子と洋菓子、散々迷ってから今日は求肥をはさんだ和風マカロンにしたのだった。

 和風ではあるけれどマカロンは洋菓子だから、かぶらない、ということにしておこう、と沙綺羅は自分に言いきかせた。


「ずいぶん大きいですね」

「はい、そうなのですよ、大きくってやわらかくって甘くって、もうそれはそれは気持ちのいいはみごたえで」

「かみごたえ、ですね」

「え、ああ、ええっとですね、噛むではなくって食むです、そこは沙綺羅さん」

「あ、そうですか。食むですね」


 沙綺羅は素直に同意すると肩に掛けたバッグからガーゼハンカチを取り出した。

 

「白いですよ」

「え、ファンデーション白塗りに見えるでしょうか。ナチュラルメイクの動画を見ながらしてみたのですが」

「真乎さん、動画見ながらメイクしてるんですか」

「チャレンジメイクの時は動画見ますよ」


 ナチュラルメイクがチャレンジなのかと沙綺羅は目をしばたたく。


「メイクは白くないです。いつもと同じで自然です」

「いつもは自然ですか。でしたら、ナチュラルメイクしなくても大丈夫ですね」


 真乎はにっこりしていちご大福に口をつけた。


「みずみずしいです」


 うれしそうな真乎に沙綺羅は取り出したハンカチを沙綺羅に差し出した。


「口のまわりだけ不自然です」


 いちご大福を食べ終えた真乎はハンカチを受け取って小首を傾げる。


「不自然はハンカチでぬぐってください」

「やわらかいですね、ガーゼのハンカチ。手毬の刺繍も愛らしいです。沙綺羅さんが刺したのですか」

「いえ、私は縫いものはちょっと。おみやげです」

「京都ですか」

「いえ、確か、金沢だったと思います」

「そういえば、金沢から手毬と指貫が届いてました。おばあさま、雪が積もる前に北陸のお知り合いのところをまわっているのです」

「そうなんですか、いいですね、晩秋の金沢」

「いいですね、金沢」


 真乎はハンカチで口元を拭いながら言った。


「真乎さん、金沢へは前に何か資料を探しに行きませんでしっけ」

「はい、まいりました」


 真乎は目を閉じると訪れた時の情景を思い浮かべるように語りだした。


「訪れたのは桜の頃でした。淡いピンクの花小紋を散らしたような小高い卯辰山を背に、鏡花の物語の舞台となった界隈の梅ノ橋が、おぼろな花霞に浮かび上がっているではありませんか。

 常にもならやさしく流れゆく女川と称される浅野川が、春の長雨に早瀬と化して勢いを増し、流されぬようにと鴨の夫婦が子鴨を守るように岸辺に羽根を休めておりました」


 真乎の語りは小説の一節を読み上げているようで思わず沙綺羅も聞き入っていた。


「金沢三文豪はご存じですね、沙綺羅さん」


 真乎が唐突に尋ねてきた。


「泉鏡花、徳田秋聲、室生犀星、いずれも単独で文学施設が成り立つ文豪です」


 沙綺羅がすらすらと答えた。


「そうなのです。鏡花さん、秋聲さん、犀星さん、おうちで読むのとはまた違うゆかりの地での読書体験は格別なのです」

「三冊持ち歩くのは重くなかったですか。真乎さん、重いもの運ぶの苦手でしたよね」

「持ち歩きはしませんでしたよ」


 真乎があっさりと言った。


「現地での読書体験はどうしたんですか」

「それぞれの施設で読むことができました」


 文学施設ではその作家の本がほぼ全て収蔵されていてそれを読むことのできるスペースが設けられていることが多い。

 読んでこの本が欲しいとなったら、ミュージアムショップで購入することもできる。

 真乎の旅はそんなところから行きより帰りが大荷物になることがままあるのだったと沙綺羅は思い出した。


「車中では何をしてたんですか。本がなくて退屈しませんでしたか」

「車中は眠ってました。お弁当をいただいて、その時は、桜ちらしでした。薄桃色の生姜の花びらが愛らしかったです。錦糸卵の菜の花畑に、そうそう、菜花は萌えいずる若草の野原に使われてました。桜鯛の昆布締めはほどよいすっぱさで、塩漬けの桜を塩抜きして封じ込めた寒天寄せがデザートでした」

「ずいぶん豪勢なお弁当ですね」

「はい、目的に向かって英気を養ってました」


 真乎の詳細なお弁当の説明に、ご相伴に預かりたかったと沙綺羅は思った。


「お弁当をずっと食べていたわけじゃありませんよね」

「食後はお休みいたしました」

「寝てたんですね」

「おなかがくちくなれば、お眠になるのは、人のならわしでしょう」


 済ました顔で真乎は言う。


「それで、何を探してたんですか」

「海のもの、里のもの、甘いもの、諸々美味なものです」

「それ、全部、口に入るものですよね」

「はい。ですから、資料です」

「その資料は何に使ったんですか。もしかして、文豪の食事の研究とか」

「ご明察。沙綺羅さんにもお手伝いしていただいたのではなかったかしら」

「……かしら。かしらって、思い出しました、てりふりでメニュー表用の用紙の取扱いを頼まれて、見本を作るのに、わざわざ文豪の食事を再現して書いたんでした。金沢ゆかりの作家室生犀星のお孫さんが記したレシピ本の『をみなごのための室生家の料理集』が金沢のおみやげの一つでした」

「そうなのです」


 沙綺羅が思い出したのを我が意を得たりと、真乎は再び語りだした。


「秋声さん、鏡花さんと巡り、最後に訪れたのは、犀星さんです。バスに乗りまして兼六園、金沢城を巡り、街を過ぎゆき、坂を越え、窓越しの景色を楽しみながら揺られ、犀川にかかる桜橋を渡り、寺町寺院群のそばを通りまして、再び犀川を渡り片町バス停で降りました。そこから犀川に向かって道をもどり、犀川大橋を渡りながら川の上流を見やりますと、晴れ渡った空も清々しく、遠くに白雪をいただく連山が望めました。満開の桜に縁どられ、荒ぶる男川と呼ばれる犀川らしからぬ春の昼下がりののどかな光景を堪能いたしました」


 真乎の語る春の金沢の情景に沙綺羅もしばし想像の中で遊んだ。


「その節は、ありがとうございました」

「まあ、美味しかったからいいんですけど」

「美味しくなかったら、だめだったのですか」

「それは、それなりに材料集めて、調理法を工夫して、見栄えもいいように盛りつけて、ってけっこうな時間をかけましたから、美味しくなかったらがっかりでしたよ」

「がっかり、でしたか」

「ですから、がっかりでなかったから、よかったです」


 真乎はにっこりすると、


「それは、よかったです」


 と言った。


「真乎さん、手毬と指貫、見せてもらえますか」

「よろしいですよ、お茶ご一緒してからにいたしましょう」


 真乎は片手で器用にハンカチを畳んで割烹着のポケットに入れた。


「洗ってからお返ししますね」

 

 真乎はそう言うとくるりと背を向けた。

 


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