きれいなだけじゃだめなんです

 最初の客は女性だった。

 見慣れない顔だな、と真乎は思った。


 「いらっしゃいませ」


 と挨拶をして、真乎はその後はしばらくレジ脇で商品のアンティークプレスガラスの小皿を拭き始めた。客が店内を見てまわっている間はやたらに声掛けをしないのが、こうした店を営むコツだと祖母から言われていた。

 客の様子を観察して、ひやかしなのか、探しものなのか、預けものがあるのか、よく観察することが肝要なのだと、つい声掛けをしてしまう真乎は祖母からよく注意された。


 祖母のアドバイスを通りに、真乎はさりげなく観察を始めた。


 年の頃は五十前後だろうか、薄化粧で肩先で揺れる髪には白髪が数本見え隠れしている。老けては見えないが、若々しい感じでもない。服装は白いブラウスにこげ茶のフレアスカート、キャメルカラーのカーディガンをはおっている。足元はソックスにスニーカー。とくによそ行きのスタイルではない、ちょっとそこまでといったいで立ちだった。

 目を惹いたのは、彼女がバッグを持っていないことだった。手に長財布を持っているがショルダーもリュックも手提げもエコバッグもとにかくバッグ類を持っていなのだ。男性はポケットに財布だけというのはよくあることだが、女性が財布だけというのは珍しかった。ご近所さんでないのでなおさらのことだった。


 見たことがないということは、奥山の方から来たのだろうか。

 真乎の住むこの辺りは、こじんまりとした地方都市のさらに衛星都市といった町だった。駅前から鄙びた里山地区やさらに奥の山間部へとバスが出ているが、一時間に1本あるかないかの少なさだ。車がないと暮らしにくい。

 それか、引っ越してきたばかりなのだろうか。

 近所への引っ越しだったら、知らないはずはない。

 町自体も小さいから、人の出入りはすぐにわかる。

 最近新しい人が来たという話は出ていない。

 奥山の方だと、わからないこともある。

 週末朝市に出てる店主たちにきいてみたら、わかるかもしれない。

 あちこちの朝市に顔を出している情報通がいる。

 

 そろそろかな、と頃合いを見計らって真乎が声をかけようとした時だった。

 壁掛けの振り子時計が12時を打った。

 それに合わせて鳩時計が2台、合唱を始めた。

 振り子時計のやわらかな響きと、ソプラノとメゾソプラノの鳩時計の合唱が、ひと足先に沈黙を破った形になった。


――あー、もうお昼、ついに開店時間が正午になってしまった――


 真乎は肩をすくめた。

 祖母から店番を引き継いでこの方、自分一人で店を開ける時は、最初は祖母に倣って10時開店にしてたのだが、それが半になり11時にになりついに正午になってしまったのだった。

 朝起きられないわけでもないのに、起きてから動き出すまでが長いのだ。

 目覚めてからしばらく寝床でごろごろしながら、「紅茶をいれにきて」「すみません、もう職場です、ちゃんと一人で起きてください」といった具合に助手の庚之塚沙綺羅からのモーニングラインに挨拶を返して、ようやく起き出して、朝のティータイムで目が覚めるという流れで一日が始まるのだった。

 もともと午前中の客は祖母の知り合いのご近所さんばかりで、そのご近所さんも年々減ってきて、今では、祖母とデイサービスでおしゃべりする仲間となっている。


 時計の合唱が終わった。

 真乎は気を取り直して、女性客に声をかけた。


「何かお探しですか」


 女性客は、一心にショーケースの前にしゃがみこんで古い薬瓶やインク壺、ベネチアングラスのペン先などを見比べている。


「ガラス製品の古いものでしたら、器もございますが」


 真乎の語りかけに、女性客は顔を上げた。


「画材屋さんで聞いてきたんです」


 画材ですか、と真乎は頭の中で取り扱い商品を思い浮かべる。


「画材屋さんは、貝原文具店ですね」


 真乎は小学校の前にある昔ながらの文房具屋の名前を言った。


「はあ、お店の名前は忘れてしまいました」

「この辺りでしたら、貝原さんだと思います」

「そうでうか、そうですね」


 女性客は、画材を求めて、小間物屋てりふりに至ることになった経過を話しだした。

 ここへは、話し相手を求めてくる人もいるので、真乎は頷きながら聞いていた。


「駅前でバスを降りたのですが、引越してきてから駅に来たことがなかったので、画材を売っている店の場所がわからなくて、聞いてまわりました」


 やはり引っ越してきたのだ。


「最初に駅前の薬局でたずねました」

「ああ、古椿こつばき屋さんですね。あそこは、もともと化粧品屋さんだったんですよ。娘さんが薬剤師になって跡を継いで薬局にしたんです。化粧品も扱ってますよ、娘さんは調香も勉強されたので、ルームコロンも開発して人気商品になってるんですよ」


 場を和ませようと真乎は、いつもののんびり口調で世間話を続ける。


「私の今いる所は、奥山と呼ばれているんです。そんなに山深いわけではないんですよ。ただ、繁華街へはバスで小一時間かかるんです。本数も少ないです」

「お買い物はどちらで」

「よろず屋っていうんでしょうか、スーパーマーケットが1軒あります。あと、週末には朝市が立ちます。普段はそれで十分間に合っています」

 

 そこで一息つくと、女性客は、財布を開けて中から絵具のチューブを1本取り出した。


「セルリアンブルー、きれいな青」


 真乎がつぶやくと女性客はふーっとため息をついた。


「きれいなんですが、きれいなだけじゃだめなんです」

「それは、どういう」


 女性客が言うには、きれいな青とそれを引き立てる古びた色が必要なのだそうだ。

 文房具店で絵具を一通り確認してから、少し変わった画材はないかと訊いてみたところ、だったら「てりふり」に行くといいと教えられたのだそうだった。

 引っ越してきて三年、小さな町だと思っていたが、まだ知らない店があったのだと少しわくわくして女性客は言った。

「てりふり、って何屋さんですか」「小間物屋ですよ、お孫さんが店番をしてることが増えてから、お若い方なので、ハンドメイドって言うんですか、お好きみたいで、手仕事の面白い材料も扱うようになったんですよ」と、店番をしている文房具屋の娘が説明してくれたのだそうだった。


「貝原さんにない画材となりますと、古い油絵の絵具を削って採取したいのですか」


 女性客の話を聞き終えて、真乎は言った。

 女性の目が急に見開かれ、全身からうれしさが溢れていた。


「そうです。古いもので味を出したいんです。きれいではだめなんです」


 勢いに押されて真乎は目をしばたたいた。


「あの、早く、見せてください。古いもの、汚れてるもの、腐りかけてる野菜くず、こねた泥団子、ああ、早く見せて」


 真乎は、落ち着きのない女性の様子に、あれ、と思った。

 さりげなく観察すると、女性の髪が艶というよりは脂じみている。

 真乎の視線に気づいたのか、女性がいきなり髪をかきむしり出した。

 大量のふけが飛び散り、首筋に垢が浮いているのが見え、襟首は真っ黒だった。

 ブラウスの袖口からのぞく手首は骨ばっていて、骸骨の手のようだ。

 手首には手錠のようなデザインの水晶のバングルががっちりをはめられている。

 女性は、右手左手で順番にそれぞれの手首にはまっているバングルをさすっている。

 さすっている間に落ち着いたのか、女性は落ち着いてきた。


「時間が、ないんです。早くしないと、あの子が捨てられてしまう」

「捨てられてしまうとは、仔猫か仔犬を拾われたのですか。画材は飼うための小屋を作るのに使うんですか」

「あの子を、そんなものと一緒にするな」


 女性が眉を吊り上げて怒鳴った。

 明らかに様子がおかしい。

 憑き物だろうか。

 真乎は、あやしきもの全般を頭ごなしに否定はしていない。

 それゆえに、本物の妖怪や怪異も、まやかしも、つくりものも、全て寄ってきてしまう。普段から対処法を準備して、心構えはできているつもりだったが、久しぶりの劇的な変性に思わずひるんでしまった。

 そこを突いて女性は真乎を突き飛ばすと、店の奥の絵画保管スペースへと駆け出していった。


「待って、勝手にあさらないで、あ、そんな乱暴したら破れちゃう」

「早く、早く、早く、ほら、呼んでる、あの子が、だっこ、だっこ、だっこって」

  

 女性はわめきながら立て掛けてある油彩画のキャンパスを次々と取り出して「違う」と叫んで放り投げたり、画面に爪を立ててぎりぎりと絵具をこそげ落とそうしたた。

 爪がはがれかけて血まみれになった指でキャンパスに殴り描き始めた。

 狂気に駆り立てられているのか、やりたい放題だった。


 店に出してあるのは、日曜画家が家に仕舞いきれずに持ち込んできたものが多く、個人的な感傷での値付けで高価なものではなかったが、それでも、一筆一筆気持ちを込めて描いたに違いない絵をずたずたにされるのは気分のよいものではなかった。


「あ、あれは、買い戻したいって言われてた方の自画像、顔を塗りつぶしてる、今度は描き足してる、目? おっきな目が一つ、どうしましょう、、引き取りにいらっしゃるまでに修復できるでしょうか」


 真乎は茫然として女性の狼藉ぶりをただ見ているしかできなかったが、一時的な預かりものにまで手をかけ出したのに至って、ようやく動き出した。


「庚之塚さん、今、どこ、来て、店の方、早く、お願い」


 真乎はラインを入れ、携帯に留守電を入れ、メールを送り、助手の庚之塚沙綺羅に助けを求めた。


「どうしたんですか、真乎さん、今大学の研究室です、すぐ出ます、強盗だったら隙を見て通報してください」


 ラインとメールに同じ文章が届いた。電話はかけらない状況らしい。


「強盗だったらって、隙を見てって、それより悪いかも」


 とにかく今女性客に声をかけるのは、火に油を注ぐようなものだと真乎は感じていた。






 


 





 

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