第9話 そこは不思議な世界 エルモール
マスターの奥さんだろうか。そのきれいな女性は隣の誰も
「ん? ……同じね」
微笑む。
『かわいらしい』和也はこういう美弥のちょっとした
美弥はホットケーキとミックスジュース。和也はホットケーキとメロンクリームソーダを注文した。美弥は
店内に静かにピアノの曲が流れている。どこかで聴いたことがあるような曲。なんという曲が流れているんだろう?懐かしい。懐かしいと思うものの曲名はわからない。
「いい曲だね。これ、どういうジャンルの曲なの?」
「童謡とか
「童謡と唱歌ってどういう違いがあるの?」
「たぶん明確な線引きはないと思うけど。童謡って子供向けの歌だったり子供が口ずさむような歌全般のことで、唱歌って小学校の音楽の教科書に載ってるような歌のことだと思うよ。明治時代の頃には小学校の音楽の授業のことを『唱歌』って言ってたんじゃなかったかな。うろ覚えだけど」
さっきの女性がホットケーキとミックスジュース、メロンクリームソーダを持って来てくれた。
「ゆっくりしていってくださいね」
ホットケーキにはバターが少し溶け、小さなガラスの器にメープルシロップが入っている。ミックスジュースは今作ったばかりという感じに泡立っている。メロンクリームソーダは、この飲み物以外で見たことがないような緑色のソーダにアイスクリーム。そして、これも最近ではあまり見たことがないような真っ赤なサクランボが飾られている。これぞ『昭和』という『昭和感』満載の飲み物だ。
「ここはオアシスみたいなところでしょう。ゆっくり食べて行ってね」
女性が言う。
美弥が微笑む。
「ここのお店、雰囲気がいいですね」
「ありがとう。ここのショッピングモールは人がたくさんいて賑やかだから、静かに休める空間があればと思って、こういう感じの店にしてるの」
心地よい音楽と気持ちの休まるシックな雰囲気、やさしい照明。昨日からの疲れもあり、和也は意識を失うように眠りに落ちてしまった。
懐かしい風景の中にいる夢を見た。それはさっき聞いたピアノ曲の風景そのものの中に、学生時代の和也がいた。風が吹いている。なぜか少し強い風が吹いていて、どこを向いても
「美弥ちゃん!」
と叫んだ。
瞬間、誰かにポンと肩をたたかれて目が覚めた。
肩をたたかれたと思ったのも夢だった。どれくら眠っていたのだろう? 一瞬意識が飛んだような、そんな
目を覚ますと、美弥が微笑みながらこっちを見ていた。
「おはよ」
「あ、ごめん」
「いいよ。いいよ。疲れたよね。なんか昨日から」
店の中を改めてゆっくり見回す彼女は、テーブルの上にあった占いの機械に興味を持ったようだ。星座を合わせている。『みずがめ座?』
「これってお金入れるの?」
「そうみたいだね」
「やめとこ」
「さっき、僕は長い時間眠ってたのかな」
「ん? 十分くらいだよ」
「そうだ、僕、何か寝言みたいなこと言った?」
「どうだろう?」
夢の中で美弥の名前を呼んだ記憶がる。
「私の名前呼んでくれてた……」
占いの機械を元に戻しながら美弥が言う。
「ごめん」
「どうして謝るの? 私が夢に出てきたの?」
「いや、美弥ちゃんがいなくて不安になったのかな?」
「え? そうなの? 私はここにいるよ」
どう理解したらいいのか分からないが、こんな美弥との会話も心地よい。
少し休んで、店の女性がにお勘定をしてもらう。値段もリーズナブルだった。また来たいと思った。
「迷子にならないように気を付けてね。ここは大きなショッピングモールだから……ショッピングモールで、そんなはずはないと思うかもしれないけど、迷う人、結構いるみたいよ」
「迷うんですか?」
「そう、迷うの……見た? ここの時計台」
「見ました」
「そう。ここには二つの大きな時計台があるの一階と二階の吹き抜けの広場と、三階と四階の吹き抜けの広場にある時計台」
『え? 一階のフロアにあった時計台は記憶がある。三階と四階の間に時計台なんてあったかな?』
美弥と和也は顔を見合わせた。
「素敵なお二人さん。あなた、彼女を大切にしてあげるのよ。きっと、あなたを助けてくれるから」
「はい」
と応えながら、心の中で『大切にするよ。美弥ちゃんの前でナイスアドバイス。』と思った『でも、助けてくれるって、どういうことだ?』とも思ったが、特に聞き返すこともしなかった。ほんの少しの時間だったが眠ったことで、随分すっきりした。女性に見送られて二人は店を出た。時計台が2つあるというのは、まだ信じ
ドアが開くときのカランという音が耳に残った。
店を出た後、このエリアを、もう少し先まで歩いた。いろいろな店を見て回るのにも少し疲れてきた。
「朗たち今頃どこにいるんだろう」
「さあ……いいんじゃない。帰る頃には連絡してくるでしょう。連絡してこないってことは、連絡しなくていいってことじゃない?」
『ん? そういう理屈か。おもしろい考え方をするな』と思った。こういうところが美弥の不思議ちゃん感を
スマホに目をやる時刻は三時。まだ連絡はないようだ。
引き返し中央の広場に戻ってくる。確かに店の女性が言っていた通り三階と四階は、この中央広場の部分だけが吹き抜けになって時計台が見えている。一階と二階の中央広場だけでなく、この三階と四階の間も同じような造りになっていた。
東西南北すべての方向に向かう通りが交わる中央の部分が大きな広場になって吹き抜けになっていた。ここは今四階だ。四階の中央部分はドーナツ状になって三階を見下ろすことができる。そして三階からそびえる大きな時計台は四階のドーナツ状の部分を突き抜けて四階の天井に着くほど高くそびえている。四階からでも時計を見ることができる。
時計台の時計も三時を少し回っていた。
「お店の人が言ってたけど、この階にも時計台あったんだね。僕たち五階で昼ごはん食べて……ここに下りてきたんじゃなかったっけ?」
不思議そうな顔をする美弥。
「ここじゃないでしょう。五階のフードコートからエスカレーターで降りてきたところは、ここより少し西に行ったところだったと思うけど」
「さっきの喫茶店の方にエスカレーターがあったの?」
「そうだよ……ここは初めて来るんじゃない?」
美弥は自信あり気に言う。
美弥はそういうが、和也は、どうもそんな気がしない。今まで『階』を移動するときは、いつも中央広場の近くを通っていた気がする。いや、少なくとも中央広場が見える距離のところにエスカレーターがあったと思っていた。つまり広場に時計台のようなものがあれば、当然見えていたはず、気が付いていたはずだ……そういう気がしてならない。
早くも迷ってしまったのか?
「もう三時過ぎたのね。」
「そろそろ三階の方に行ってみようか?」
何か
『あ……』確かに美弥の言う通り、こっちにエスカレーターはあった。しかし、やはり何か
「ねえ、美弥ちゃん。さっきの店。この先だっけ」
「そう思うけど、どうだろう? 実は、私もなんか自信がなくなってきたな」
美弥も少し不安そうな表情を見せる。
「このまま、もう少し歩いて、お店がなかったら……なんて考えると、なんか私も自信がないの。お店の場所は、この先で間違いないと思うけど……けど、お店に辿り着けないんじゃないかって。だから、ちょっとこの先に進む自信がない」
和也もそんな気がしていた。いや、それ以前にエスカレーターは確かに美弥の言う通りの場所にあったが、四階に下りてきたときのエスカレーターの場所ではなかった気がしてならない。
「やっぱり、朗君たちに連絡しましょうか?」
美弥も少し不安そうに言う。
もう一度あたりを見回して、二人は顔を見合わせる。
「ねえ、和也君。明日また、ゆっくり二人でデートしよ。今日はあの二人と合流しましょう」
美弥の口からそんな言葉がでてくるとは思ってもいなかった。
「うん、そうしよう」
「でも、明日は別のところにしようね」
「そうしよう」
和也は嬉しさを抑えられないが、それと同じくらい何か不思議な感覚に
スマホで朗に連絡を取る。
「おお、和也。今どこ?」
「四階だよ。これからエスカレーターで三階に下りて行こうと思うんだけど。朗たちどこにいるの……え、四階?」
話していると、西の通りから朗と奈緒子がやって来た。
「同じフロアにいたんだ」
「朗、アウトドアグッズ買ったの?」
「おお、その後、四階に来ていろいろな店見て回りよった。で、その後ちょっとレトロな喫茶店見つけて奈緒子が入りたいっていうき、また、デザート食べよったがよ」
「朗がメロンクリームソーダ飲みたいっていうから。私はミックスジュース」
「そうなんだ、この階は昭和感のあるレトロな店が多いんだな。僕たちも……」
そこまで言いかけて、『同じような店なのか?』と思った。
この状況には美弥も少し
「お二人さんは、どこでデートしてたの?」
奈緒子が少しからかうような口調で聞いてくるが、奈緒子の口調も二人を冷やかす気持ちよりも、どうしても『別のこと』を確認しておきたい……そんな気持ちが感じられた。
「『峰岸』っていう喫茶店だよ」
美弥の一言に奈緒子の表情が変わった。
「私たちもね。何かここのショッピングモール不思議な感じがしてて。あなたたちに連絡取りたいと思ってたの。私と朗もその『峰岸』っていう喫茶店にさっきまでいて、出てきたら道に迷ったみたいで」
「和也らに会えて、ちょっとホッとしたところやったけど。なんか状況はあんまりいい感じじゃないねえ」
「とりあえず今日は帰ろう」
和也の提案に反対する声はなかった。
何かわからないが少しまずい世界に迷い込んだ気がする。これはただ巨大ショッピングモールで迷ったというのとは少し違う状況にある気がしてきた。
奈緒子がここに来た時、最初にもらったショッピングモールのパンフレットを広げた。
「ここには時計台が二つある『峰岸』の女性はそう言ってた。そうだ、そのパンフレットに載っているマップ。時計台は『二つ』あったか?」
和也はまずそれを確かめたいと思った。
「あったの。それはマップにあったのよ。私も気付いてなかったけど、そこを通てなかったのよ」
最初マップを見た時は、初めて来る場所ですべて知らないところばかりだったこととや、このショッピングモールがあまりに広く複雑な造りになっていたことで、マップの中に時計台が二つ表示されていることなど気が付いていなかった。
そもそもここへ時計台を見に来たわけではないし、それが目印になるとも思ってなかった。建物全体の
それにしてもさっき、和也と二人でいるとき美弥もそう言った。『そこを通ってなかった』と、そして、今、奈緒子も『そこを通ってなかった』と言った。本当にそうだろうか。ショッピングモールの中でも、かなり広い中央の広場を三階、四階と上に上がっていくなかで通らなかっただろうか?
この建物は四方に広がっている。和也たちは朝、南の通りから中央の時計台まで行き、そこの近くにあったエスカレーターで二階に行った。そこで美弥のヴァイオリンの演奏。あの楽器店は二階の中央広場からそう遠くない場所にあった。そして、そのあと四人は五階の飲食店街に行った。建物の構造上、四方に広がっているので、中央にエレベーターやエスカレーターが集中している。確かに端の方の店に行く人もいるので各フロアー東西南北それぞれ通りの途中にもエレベーターやエスカレーターはいくつかある。
しかし、四人はそんな中央から離れた端の方のエスカレーターは使わなかった。三階と四階の間の中央の吹き抜けに、もう一つ大きな時計台があることに誰も気付かないで五階まで行ったのか? ここの広場そのものを通ってなかったとしても、ここに時計台がもう一つあったら、目印としても、誰か気付きそうなものだ。
『三階と四階の間に時計台はなかった』和也はそう思った。
「とにかく、下の階に下りよう」
「おお、そうしよう。とりあえずそこのエスカレーターで3階に下りれるろう」
四人とも少し
長いエスカレーター。隣のエスカレーターで上の階に上がっていく人もいる。何だろう、この変な感覚は和也は違和感を感じる。四人は異常を感じて、この建物から出ようとしているのに、この周りの人たちは何なんだろう。毎日の変わらない日常を楽しんでいるようにショッピングモールの中で行動している。自分たちだけがまるで足を踏み入れてはいけない異世界に踏み込んだような感覚になっているのだろうか?
三階に着き中央広場に行ってみる。時計台はその広場の真ん中から四階の高さまでそびえている。
朝ここへ来たとき一階で見たのと同じなのか、似ているがまったく別の形、飾りつけのものなのか……
「一階にあったのと同じなの?」
奈緒子がしげしげと見上げる。
「そんなことより早く下に行こう」
朗が
この階から下に下りるエスカレーターやエレベーターはこの近くにはないらしい。あたりを見回した朗は、
「なんでこの場所にエスカレーターがないがな」
この建物の構造に少しいらだっている様子だった。
奈緒子のパンフレットによると、ここは東の通りか西の通りを少し進んだところにエスカレーターがあり、北の通りにエレベーターがあるようだ。四人とも無意識にエレベーターよりエスカレーターを使いたいという気持ちが勝っていた。エスカレーターなら移動中も周りの景色が確認できる。エスカレーターを使うことで意見が一致した。当然のことだが、東の通りにも西の通りにも、それぞれ上りと下りのエスカレーターがある。そう思った。
「え!」
四人とも
「なに、これ!」
東のエスカレーターも西のエスカレーターも同じだった。エスカレーターで下に下りられない。四人は顔を見合わせた。
「エレベーターだ」
「それしかないな」
そしてエレベーターの前まできて
****
「おい、ここ一体どうなってるんだよ!」
いつも冷静な朗も、さすがにこの状況を理解できないという感じだった。
「ねえ。私たち本当に迷ったの? ここショッピングモールだよ」
奈緒子が呆れたようにあたりを見回す。。
「まあ、とにかく、とりあえず、まずは下に下りるエスカレーター探そうよ。一階にさえ行ければ必ず出口あるんだから」
こんなとき美弥が一番冷静で頼りになる。
「そうだな。でもここ本当のところ何階なんだ? それすらわからないよ」
和也ばかりではない、四人とも自分たちが何階にいるのかすらわからなくなり始めていた。
「冗談でしょ。本当にショッピングモールで迷子になったの? でも、まあ、これだけ人がたくさんいるんだから、いくらでも聞く人はいるじゃない。きっと地元でしょっちゅう来てる人もいるだろうし」
奈緒子は近くを通る親子連れに声をかける。
「すみません。下の階に下りるエスカレーター、どこにあるかわかります? 私たち迷っちゃったみたいで」
「ああ、ここをまっすぐ行って時計台のある広場を左に曲がったところにあったよ」
「ありがとうございます……ほら、すぐわかるじゃない」
お礼もそこそこに言われたとおり広場に向 かう。そこに向かう間も、いちいち周りにある店の記憶が曖昧である。行き違う人もさっきすれ違ったような気もするが、初めて見る人のような気もする。
さっきの時計台だ。
「和也……ここがさっき通ったところだよね」
奈緒子は印象的な文字盤の時計を見上げながら言う。
「そうだね」
和也の言葉に、
「左に曲がるって……私たち、そっちから来たのよ。エスカレーターなんて……なかった」
左の方を見ながら美弥も不安そうに言う。
当然、時計台には記憶がある。
時計の上には美しい文字が並んでいる。
『エルモール』
****
マップを見ながら奈緒子が言う。
「あ、中央広場から南に行ったところに、もう一つエスカレーターがあるよ」
「それは下に下りるエスカレーターか?」
「このマップだけじゃ、よくわからない」
「まあ、行ってみようよ」
美弥はまだ落ち着いていると思った。しかし、この後、その美弥も少し動揺を抑えられなくなる状況に
エスカレーターの場所に着くと上に上るエスカレーターと下に下るエスカレーター。四人に
「え!朗、僕たち次二階に下りるはずだよな」
「おお、ここ三階じゃなかったがか?」
奈緒子が不安そうに美弥の手を握る。
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