第11話 迷宮に消えていく想い出たち

 女性は店を出ると通りを西に向かって歩きだした。

「え? そっちなの?」

奈緒子が思わず声を出す。

女性は不思議そうな顔をして四人の方を見る。

和也や朗、美弥も一瞬、呆気あっけに取られたような顔をした。そうだった四人はできるだけ中央の時計台の近くから離れないよう、中央の広場の近くでエスカレーターを探そうとしていた。

「私はいつもこっちのエスカレーター使ってるから」

女性はしばらく西に向かって歩く。

すると通りの中央に下から上ってくるエスカレーターと上に上っていくエスカレーター。そして、そこから数メートル先に、それと向かい合うように上からに下りてくるエスカレーター、下に下りていくエスカレーターがある。普通にデパートなどでよく見るエスカレーターの並びだ。

「これ。これがなかったのよ。中央広場のあたりには」

奈緒子が言った。

「そうだよ。普通デパートやショッピングモールのエレベーターはこうなっているんだよ」

和也たちも思わず声が出た。

 ここのショッピングモールの中央広場の近くのエスカレーターは何かの演出か、なぜかエスカレーターが単品である感じで一々、下から上ってくるエスカレーターと上に上っていくエスカレーターの組と、上から下りてくるエスカレーターと下に下りていくエスカレーターの組がバラバラに設置されている。

 その二組のエスカレーターがまとまったところにコンパクトにないから、余計に歩かなければならないし、次の階に行くエスカレーター探しているうちに、上がってきたところ、下りてきたところがわからなくなる。そしてまた、歩くところが多くなる分、この建物を無駄に広く感じるような気がした。

 女性は当たり前のように下に下りていくエスカレーターに乗る。和也たちもついていく。三階に着く、そして、また、どこにでもあるエスカレーターと同じように、そのまま下の階に下りていくエスカレーターに乗る。

そして二階に着いた。


「二階だ。」

朗の声に四人は顔を見合わせる。


 が、ここまでだった。

また下に下りるエスカレーターがここにはなかった。女性はまるで自分の家の中を歩くような感じで通りを歩き始める。今度は東に向かって歩く。

 この辺りは四人とも初めて来るエリアだった。周りにある店も、まったく初めて見る店ばかりだ。もともと、このショッピングモールは、今日初めて来たところなので、どこへ行っても初めて見るところばかりというのは当たり前だったが、それでも、この迷っているという状況の中で、初めて通るところは何か『別の世界を歩いている』ような変な感覚になってくる。

 それでも、店を出た時からの道順を考えれば、今、自分たちが中央の広場に向かって歩いていることは間違いないと思った。

 このショッピングモールの各階の中央にある広場はとても広く、どのフロアも広場の周りでは、何かしらのイベントをしている。また中央広場は建物の構造上、各エリアからの合流点になっているため各フロアとも中央広場に近づくほど、たくさんの人であふれている。

 随分歩いたが、まだまだ四人はこの建物に慣れていないことと、女性が意外に足早あしばやに歩くのに、周囲の店や通りを行きうたくさんの人、人ごみにさえぎられて、いつの間にか四人は女性を見失ってしまった。

「あれ? どこに行ったんだろう」

和也は女性にかれたかのような感じになり、あたりを見回す。見回すがすでに女性の姿はどこにも見えなかった。

「どこへ行ったがやろう」

朗もきょろきょろしているが、もう女性を見つけられそうもない。

「でも、ここまで来れば、もう帰れそうじゃない?」

奈緒子が少し気が楽になったという感じで微笑む。

 そこを、そのまま少し進めば二階の中央広場のはずだ。そして、二階の中央広場は吹き抜けになっていて一階からそびえる大きな時計台がある。そこから一階の中央広場も見えるはずだ。

 しかし、最初、店を出たとき四階でどれだけ西に歩いていたのだろう。二階に下りて来てかなり東に進んだと思ったが、なかなか中央広場に辿り着けない。


 しばらく歩いたとき、朗が遠くの方を誰か探すように見ていたかと思うと、

「あれ! あそこにおるの川田やない? 高校の時の同じクラスやった」

「だれ?」

そう聞く奈緒子の声も聞かないで、朗は人ごみの方に走り始めた。

「ちょっと、待ってよ」

それを見て奈緒子も後に続く。

「おいおい。ちょっと待ってよ」

和也も追いかけようとする。

「あ!」

和也が振り返ると、美弥が持っていた買い物袋を落として拾っていた。

「大丈夫?」

「うん」

美弥を置いては行けなかった。二階に辿り着いたとはいえ、まだ自分たちの知っている場所には帰って来ていない。そして、何より美弥とはぐれてはいけないと思った。

「ごめん。私せいで二人と、はぐれちゃった。ごめん。本当にごめんなさい」

「いいよ。いいよ。別に。すぐ見つかるよ。でも朗、だれを見つけて追いかけて行ったんだろうね」

申し訳なさそうに謝る美弥を、和也はなんとかなぐさめたかった。

「本当だね。朗君、誰をそんなに追いかけて行ったんだろう?」

和也は『まあ別に、いざとなればスマホで連絡を取ることもできる』と思った。再び、美弥と二人になった。二人になって、改めて『随分ずっと歩いて来たな』と思った。美弥もかなり疲れているようだった。

「ちょっと休んでいく?」

「いいよ。大丈夫。中央の広場までいこうよ」

本当に四階で、どれだけ西に歩いていたのだろう。まだ広場に辿り着かない。

 ふと見ると、通りの左に下に下りるエスカレーター、通りの右に下から上ってくるエスカレーターがある。

美弥と二人で顔を見合わせる。

「エスカレーターだ。下りよう」

「うん」

疲れていたのと、下に下りるエスカレーターを見つけたということで、あまり確認もせず、二人はその下に向かうエスカレーターに乗った。


下に下りれる……

しかし、これでついに一階に戻れる……


とはならなかった。


「え?」

美弥と和也は、もう一度顔を見合わせた。


 そのエスカレーターは、かなり長いエスカレーターになっており、一階のフロアをそのまま通り過ぎて地下一階に向かって下っていく。途中で飛び降りるなどということはとてもできない。一階フロアとエスカレーターの間はかなり広かった。離れた一階のフロアはたくさんの人が行きにぎわっているのが見える。それを横目にエスカレーターに乗った二人は一階を通り過ぎて行く。

 そして、地下一階に着くかと思ったが、そこでも終わらず、更にそのまま、地下一階フロアを通り過ぎて地下二階に着いた。


「なに、これ!」

「もう笑っちゃうね」

美弥の顔から笑顔がこぼれた。

その笑顔は和也のあせっていた気持ちを少しまぎらせてくれた、そしてそれと同時に、美弥を本当に魅力的な女性だなと思った。


 地下二階。そこは食品街になっていた。

「ここは本当に『ラビリンス』だね」

「ほんと。なんか……ここって、わざとこんな造りにしてるのかしら。初めて来る人が迷うわけよ。わからなくなるよね、これじゃ」

あきれ顔の美弥。

 お惣菜のいい匂いが漂っている。おいしそうな食べ物を売っている店がたくさんあるが、当然だが美弥も和也も、今は何か食べたいなどという気にはなれなかった。

「朗たちに連絡してみようか?」

「そうだね」


「あ、圏外だ」

スマホを見て和也が言う。

「え? ショッピングモール内で圏外なんてあるの? 本当に、いつの時代よ」


『いつの時代……』

という美弥の言葉に、ここに来てやたらと店や通りそのものにレトロな雰囲気を感じていた。最初はそういう店がショッピングモール内に、ぽつぽつあると思っていたが、思い出してみると、このショッピングモールにはレトロな雰囲気、昭和感を漂わせた店が思いのほか多かったような気がする。

 この食品街全体にも、どこかそういう感じが漂っているように思う。自分たちは『レトロな感じ』と表現してきたが……本当に『感じ』なのだろうか? もしかしたら、何か間違えて、その時代に来てしまっているんじゃないのだろうか? そんなおかしな考えが頭をよぎる。

 お土産売り場で買い物をしている家族連れがいる。お菓子か何かを買ったのだろうか、お店の人が手際よく、箱を包装紙で包んでいく……

当たり前と思えば、そうも見えるが最近は既に包んであるお菓子の箱を店の手提げ紙袋などにそのまま入れたりするんじゃないか?

 お菓子の箱を手際よくしわ一つないように買った人の目の前で包装紙で包んでくれる店員、美しい所作しょさ……箱を包んでいく姿が美しい。まるで昭和の百貨店のような光景に見えた。


 不思議な感じがする……そう思うと見えるもの、聞こえる音、周りを歩く人々が皆、自分たちと違う世界の人のように見えてくる。何か時代が異なる人のような不思議な感覚。


「そういえば、ここって地下はずっと通路続きに広がって、シネマコンプレックスとかスポーツジムに行けるようになってたんじゃなかったっけ? そこから更に周りの家電店やホテルなんかにも地下通路で移動できるってパンフレットに書いてなかった?」

 美弥の言葉に和也もハッとした。そういえばここに入ってきたとき『インフォメーション』でもらったパンフレットのマップでそんなことを確認したように思った。でも、そのマップは奈緒子が持っている。そして奈緒子たちとははぐれてしまった。


「そうだね。確かそうだった。でも、そんなのどこに行ったらいいかわからないよ」

「ほんとね。ここって、どうして駅の構内みたいに行きたい場所がすぐわかるような案内板みたいなものがないんだろう……」

溜息ためいきをつく美弥。

「本当だね。でも案内板を作ってたら、いろいろな店があるから案内板だらけになるんじゃない?」

「ほんとだね」

笑いながら美弥が言う。

「でも、もう少しエリアを細かく分けてさ。『西Aエリア』とか『西Bエリア』とか『南Aエリア』とか……それを案内板で表示するとかさ。まあ各エリアのどこに目当ての店があるとかは自分で探すとして……あと、何よりも『出口』を案内する案内板」


「美弥ちゃん、これ。案内板じゃないけど」

和也が通路の壁に貼ってある『貼り紙』を指差した。


『連絡通路工事のおしらせ 地下1F『シネマコンプレックス』に通じる連絡通路と地下2F『アミューズメント施設エルランド』『スポーツジム エルスポーツ』に通じる連絡通路は工事中で通行できません(工事期間 八月三一日まで)。ご迷惑をおかけしますが地上の入り口をご利用ください。』


「……だったら、地上に上がる『道順』を書いといてほしいよね」

もう一度、溜息ためいきをつく美弥。

「本当だね」


 和也と美弥はここでも中央に向かおうとしていた。二人が歩いている間、二人とすれ違い反対の方に歩いていく人が結構多いことに気が付いた。

「なんか、向こうに歩いていく人も結構多いね」

「本当ね。なんでだろう? なんか有名なお店でもあるのかな?」

和也も首をかしげる。

「ねえ、和也君。私たち中央の広場と反対の方向に行ってるんじゃないよね」

「え?」

と、美弥に言われて、和也は思い返した。

 二階の中央広場に行く途中でエスカレーターに乗った。それはとても長いエスカレーターだった。そのことに気を取られていたが、あの時一階の風景がエスカレーターの横を通り過ぎて行った。賑やかな光景が記憶にある。そこは一階だとわかった。エスカレーターから飛び降りることができたら、一階に辿り着けるよ思ったが、エスカレーターとフロアの間は広く空いていて、飛び移ることなどできないほどだった。『広く空いて飛び移れない』ということに意識がいっていたが、あれは一階の中央広場の光景だったような気がする『そうだ。中央広場を通り過ぎている』二人は広場を通り過ぎて、そのまま進んでいる、このまま行けば中央どころか、更に東に進んで行ってしまうのでは……ここは地下二階である。どんどん東の奥の方へ進むことになる。

 今までの状況を思い出しても、この通りを更に奥の方に行くことには少し恐怖を感じた。


「ちょっと……美弥ちゃん。待って」

二人は立ち止った。


 そして、和也は、今さっき自分が思い返したことを美弥に話した。

 美弥もやはり、あの長いエスカレーターに気を取られ、途中の景色をきちんと見てなかったという。ただ、思い返せばエスカレーターから見えていた一階の光景がとても賑やかに見えた記憶があり、それは一階の中央広場だったような気がすると言う。二人の意見は一致した『今、自分たちは建物の中央を通り過ぎて、中央より東に向かっている』

 二人はその先に広がる通りに目を向ける。どこまでも深く遠くまで続くように見える通りはふたりに恐怖を思わせた。

 二人は振り返り反対の方に歩きだす。

「こっちで間違いない」

和也の言葉に、美弥もうなずく。

 和也は美弥の手を握った。美弥も和也の手を握り返すのがわかった。二人は手をつなぎ歩いて来た通りを引き返した。

地下二階の中央広場の方に向かって歩き始めた。


 数分歩くと……賑やかな広場。

『着いた』

二人は顔を見合わせ。周りの人も気にせず抱き合った。

「着いたね」

微笑む美弥。


 少し落ち着いたところで、周りを見渡す。パン屋にはクロワッサンやメロンパン、おいしそうなチーズ入りのパン。おいしそうだが、なんだろう、また一段となつかしさを感じるこのレトロ感。そう、こういう新しいショッピングモールには似つかわしくないくら、昔ながらパンが並んでいる。今どきの街にあるパン屋を見てを歩いても、少なくとも今目の前に並んでいるパンより、新しさを感じるパンが並んでいる。しかし、ここのパン屋はたくさんの人が買っているのに、店に並んでいるのはクロワッサンやメロンパンもそうだが、アンパン、クリームパン、ちょっとした菓子パンも昔懐かしい感じがする。ホイップクリームを挟んだパンには真っ赤なドレンチェリー。アンパンやクリームパンもパンの色合いが懐かしい。飲み物はガラスの冷蔵ショーケースにビン入りのコーヒー牛乳やフルーツ牛乳、ヨーグルトなどが売っている。

 この今の『迷っている』という状況でなかったら、買いたいパンもたくさんある……しかし、この状況の中では、この懐かしさに、どこか不自然さを感じてしまう。


『迷っている』


そうだ、まだ『迷っている』そして、ずっと『迷っている』という感覚から抜け出せていない。

 あの『峰岸』の女性に案内されて、ここまで来れたのは、かなりの進歩だった。最初は三階と四階を行ったり来たり繰り返していたのだから、その時の状況からすれば、本当に状況がかなり進展したように思えた。しかし、まだ『迷っている』という気持ちからは解放されていないということに気付いた。

 焼き鳥やローストチキンを売っている店。おいしそうなお惣菜を売っている店。たこ焼きやお好み焼きを売っている店。

 地下二階の広場の中央には大きな回転台というのだろうか、さまざまな駄菓子やアメが計り売りで売られていた。ゆっくり回転している台は小さな子供連れの家族が楽しそうに囲んでお菓子をかごに入れていた。

「なんか時代は変わらないね。ああいうの『レトロ』とか『昭和』といいながら、傍観するでもなく、みんなリアルに楽しんでいるものね」

美弥が微笑みながら言うのを見て和也の気持ちも少しやわらぐ。

「本当だね」

 地下二階中央広場の横には上に上がっていくエスカレーターと上から下りてくるエスカレーターがあった。

「これ、また一気に地上四階とかまで行かないよね」

「うん。見た限り一つ上の階までしか行ってないみたいよ」

上の階を見上げて美弥が笑う。二人はエスカレーターに乗った。

 エスカレーターはゆっくり地下一階に着いた。そこは広大なスペースのショッピングセンターになっていた。生鮮食品から日用品まで様々なものが売っている。初めて、この光景を見た美弥と和也は売り場の広さ、陳列棚の長さに圧倒された。野菜、魚介類、精肉販売スペースの広さ、レジの数もセルフのものから店員がいるレジまで圧倒されるほど数が多い。ここのフロアは今日このショッピングモールに来た中で、最もお客さんの数が多いのではないかと思うほど人であふれている。


 上に上がるエスカレーターを探しながら歩く美弥と和也、

「朗君たち、私たちを探してるかな?」

「わからないけど。もう、この建物から出られたのかな?」

「どうだろうね」

美弥の落ち着いた言葉に、和也自身も段々落ち着けてきているのを感じた。

 まだ、一階ではないが美弥の言葉に今までにはなかった安堵感あんどかんを感じる。

 まだ、上に上がるエスカレーターが見当たらない。でも、きっと探せばどこかにエスカレーターもあるのだろう。ここはショッピングセンターのフロアで日常の買い物をしている家族も多いようだ。そう思った。

 広場を少し行ったところに、エレベーターと階段があった。上に上がる階段。

美弥と顔を見合わせる。

「行こう」

階段を上っていくとフロアの床に『1F』という文字。

「着いた」

「一階についたの?」

「たぶん」


少し歩くと中央広場の時計台。


 吹き抜けになっていて、二階の方を見ると、朝、美弥がヴァイオリンを弾いた楽器店が見える。広場にはストリートピアノがあり、何人かのOLとサラリーマンが集まってピアノを弾いている。上手とは思えないが楽しそうに弾いている姿に心がなごむ。

 そして、南の方を見ると、今日の朝、入ってきたところ……この建物の『出口』が見え、そこから出入りしている人たちが見えている。


 中央広場に着いた和也と美弥はベンチに腰を下ろした。

「結局、二人には会えなかったね。どこ行っちゃったんだろう?」

スマホを見ると充電があと僅かになっていた。

「充電があと少しだ。そうだ、美弥ちゃんの連絡先交換してくれない」

「いいよ」

まだ、和也は美弥の連絡先を知らなかった。

 美弥は電話番号とLINEを交換してくれた。きちんとつながることが確認できたところで充電が切れた。

「あ、充電切れちゃった。そうだ、美弥ちゃん、朗か奈緒子に連絡してみる?」

「ごめん、私、あの人たちの連絡先知らないの」

「え? そうなの」

「同窓会の連絡は?」

「それは別の友達に連絡して参加するって伝えてもらったの。ごめんね、なんか役に立てなくて」

「いや、いいよ。いいよ。また、明日にでも連絡すればいいでしょ。あいつらが走り出してはぐれたんだし」


微笑む美弥。


 そうだったのだ、自分でも言っていたが、美弥は、やはり、あまり高校時代の友人はたくさんいないようだ。今回の同窓会の出席もかなり悩んで参加を決めたらしい。

大勢の中にいても、いつも一人でいる印象の美弥は、その印象のままの女性だったようだ。


「美弥ちゃん、明日、電話していい?」

「いいよ。今晩、電話してくれてもいいよ」

「そうする」

『今晩』そうだ、ふと時計台の時計を見上げる。七時半を回っていた。

四階で迷ってから、三時間も経ったのかと思った。

『楽しい時間』が過ぎる三時間はあっという間でも『道に迷う時間』の三時間は長過ぎる。


「あのお」

後ろから声をかけてくる数人の女子学生がいた。祖師谷大蔵で見た時、いつも美弥が持っていたケースのようなバッグのようなものを彼女たちも持っている。

「青柳美弥さんですよね」

「はい」

声をかけてきた学生たちは顔を見合わせて喜んでいる。

「私たちヴァイオリンをやってるんです。美弥さんのファンなんです」

「え、そうなの。ありがとう」

少しのやり取りをした後、女子学生の一人が何か曲を聴かせてほしいというようなことを言った。ヴァイオリンを持ってないからとやさしく断る美弥。残念そうな表情の学生たち。

美弥は申し訳なさそうに、

「ちょっといい?」

と微笑んで、時計台の下のストリートピアノの方に歩き出した。

さっきまでOLとサラリーマンたちが、何か聞きなれない曲をたどたどしく弾いていたが、きたのかピアノを離れて近くのベンチで話をしている。

美弥がピアノの前にすわった。

「え? 美弥さんがピアノ?」

女子学生たちは少し驚いたように顔を見合わせる。


美弥はゆっくりと柔らかい曲を弾き始める。

「ショパンだ」

女子学生の一人が言う。

 それはとてもゆっくり、やさしく、美しい曲だった。和也もどこかで聴いたことのある曲。

 そこに居合わせた誰もが、顔を上げ、振り返り、聞き入ってしまう、心を洗われるような素晴らしい演奏だった。

 弾き終わると、また大きな拍手に包まれた。

「また、いつかヴァイオリンの曲。高知でも演奏するね。その時は聴きに来てね」

学生たちは美弥と握手をして嬉しそうに帰っていった。


中央の広場での美弥のピアノ演奏はたくさんの人が聴き入った。


 しかし、この時も朗と奈緒子は現れなかった。結局、このあと連絡を取ることもできず。この日再び、二人と落ち合うことはできなかった。今となっては『峰岸』の女性も幻のように思える。


「帰ろうか」

美弥と和也は南の出口に着いた。二人はショッピングモールからやっと出ることができた。もう外は暗くなっている。ヘッドライトをつけた車が行き交う。和也は自転車で来ていた。美弥はここまで、タクシーで来たという。美弥をタクシー乗り場まで送る。

「美弥ちゃん。連絡するね」

「うん」


 今までの緊張から解放され安堵が二人を包んむ。

和也は美弥を抱きしめ、二人はやさしく唇を合わせた。

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