第5話 それは七月のこと 美弥 公演が終わるとき

 グスタフ・マーラーの交響曲。弦楽器の美しい旋律にグランドハープの心地よい音色が重なる。弦楽器の荘厳な曲は劇場の空気すべてを観客の心に直接響かせているように感じる。曲の終盤、最高潮に達したところで指揮者が天に掲げるように腕を上げる……曲が終わり……数秒間の静寂。


指揮者が手を下ろした瞬間。


会場は一斉に拍手喝采の渦に包まれる。


この満場の拍手の直前にある『数秒間の静寂』もこの曲の一部だと感じさせてくれる。


 南青山フィルハーモニー交響楽団のヴァイオリニスト青柳美弥あおやぎみや。この曲の演奏で七月の公演が終わり少し長い休みに入る。この春頃から練習していたマーラーは何度か演奏したことのある曲だった。小さい頃ヴァイオリンをはじめた美弥は大学でも弾き続け、国内のコンクール一位受賞者でもある。そして、美弥が所属するこのオーケストラには国際コンクールで一位を受賞した神のようなヴァイオリニストが在籍している。

「美弥ちゃん、この休みはどうするの?」

コンサート・ミストレスの久木田愛くきたあい。その神である。そもそもこのオーケストラに在籍していることが不思議であるが、彼女自身はかなりここが気に入っているようだ。久木田はヴァイオリニストとして後輩の美弥を特にかわいがっていた。大学時代からの先輩、後輩の中で久木田は美弥より二つ年上の先輩だった。

「久し振りに実家に帰ろうかと思ってます」

ヴァイオリンをケースにしまいながら美弥が応える。

「高知だっけ? 美弥ちゃんの実家って」

うなずく美弥。

「いいとこね」

久木田が微笑みながら言う。

「行ったことあるんですか?」

「ええ。演奏とか観光で何回か……オレンジホールだっけ……」

「そうですね。県民文化ホール」

「いいとこね」


久木田は美弥の耳元に顔を近づけて言う。

「ここも大変らしいね」

「え」

「もしかしたら新高輪フィルハーモニーに吸収されるかもって……」

久木田は声をひそめて言う。

「え、その話、本当なんですか? 噂は聞いていたけど」

久木田は少し間をおいて、

「まあ、秋ぐらいには、はっきりした連絡があると思うよ……美弥ちゃん、もし何かのときには私についてきてね。美弥ちゃんとヴィオラの明日香とチェロの有紀ちゃんの四人でずっと演奏したいから」

ヴァイオリンを片付けながら久木田が言う。ヴィオラの城之内明日香じょうのうちあすかは芸大時代の久木田の同級生でコンクールで何度も入賞している。森田有紀もりたゆきは美弥の芸大時代の同級生でこちらもコンクール荒らしと言われるほど入賞歴の多いチェリストである。

「弦楽四重奏ですか?」

「弦楽四重奏ってことだけじゃなくて、私たち四人がいれば、どこでも何でもできるよ。二人にも声かけてる……どんなに大きなオケでもね。絶対に必要な人っているのよ……一緒にやっていきたい人。美弥ちゃんと明日香と有紀ちゃんは私に必要なの。それに、明日香と有紀ちゃんも、あなたを必要としている……カルテットもやろうよ。最強のやつ」

「……」

ヴァイオリンケースにつけたマスコットを大事そうに手にする美弥。

オーケストラのことは、噂に聞いていたが久木田の口から聞くと、いよいよ差し迫った現実だということを実感させられる。

「美弥ちゃん。かわいいね、そのフクロウ」


 団員たちはそれぞれ、あちらこちらで歓談し、挨拶を交わしては帰っていく。有紀は向こうの方でチェロの結城ゆうき、ハープのミランダと何か話し込んでいた。

 結城は有紀と同じチェロ奏者だが、楽団の中に何人かいるチェロ奏者の中でも特に有紀と気が合うようだ。京都出身の結城と大阪出身の有紀は、同じ関西出身ということもあってよく一緒にいるのを見る。

 ミランダはイギリス人だが日本での生活が長く、普通に日本語をしゃべる。外国人の指揮者が来たときなどは英語でしゃべっているようだが、普段はまず英語を話すことがない。まるで映画の吹き替えのような流暢りゅうちょうな日本語をしゃべる。イントネーションもおかしくないし、いつか愛の家に一緒に行ったときなど、普通に日本のお笑い番組を見て笑っていた。

 有紀が愛と美弥のところに来た。

「愛さん、お疲れさまでした」

「お疲れ様。有紀ちゃん」

美弥も有紀も、小柄こがら華奢きゃしゃな黒髪ロングのストレート、キリッと系の二人であるが、有紀の方は見た目、アクティブな印象を与える女性である。女性ながら大きなチェロケースを肩から背負うようにかけて軽々と持ち運ぶ姿と、きつくない大阪弁が、どこか活発な雰囲気を感じさせているのかもしれない。

「愛さん、私も美弥も愛さんについていきますから」

小声で言って微笑む。

「ね、美弥」

と言って美弥の肩をポンとたたく。

うなずく美弥。

 気が付くと、遠くの方からミランダが「私も行きまーす」と声を出さずに口だけ動かしてこっちに手を振っている。

愛もクスッと笑いながら手を振る。

有紀と美弥にも笑顔がこぼれる。

 三人が話しているところに明日香がやってきた。

「美弥ちゃん、有紀ちゃん。お疲れ様」

「明日香さんお疲れ様でした」

美弥と有紀は、いつも二人を気にかけてくれている明日香が大好きだった。美弥と有紀も、愛と明日香を楽団の中で特にしたっていたし、愛と明日香も二人を特別かわいがっていたので四人が一緒にいることが多かった。

「愛、この前の話……私も、あなたについていくね。あなたの演奏には私のヴィオラが必要でしょう」

と、愛の肩に手を置く。微笑み返す愛。

 彼女もまた、スッとした感じで黒髪のロング。いつも眼鏡をかけているためなのか、クールな印象とインテリジェンスを感じる。手にげるように持っていたヴィオラケースを抱きかかえるように持ち替えながら、

「新高輪フィルハーモニーに行くも、別の道を選ぶも、私は愛についていくね。美弥ちゃんも有紀ちゃんも一緒に行こうね」

そう言いながら、明日香はふと美弥の方を見てつぶやくように言う。

「でも、新高輪フィルハーモニーと一緒になったらはれがいるね」

野々宮晴ののみやはれ……

 美弥とはジュニアの頃からコンクールやいろいろなところでライバルと言われてきたヴァイオリニストだ。ドラマやアニメでライバルといえば対照的なキャラ設定が比較的に多いと思われるが、この野々宮晴ののみやはれ、演奏するときはキリッとしているものの、性格はおとなしく、無口で、おっとりしたタイプ。気が付くといつも一人でいる……美弥とタイプがかぶるヴァイオリニストだ。大学で初めて同じ学校に通う同級生になった美弥とはれだが、気の合う親友という感じだった。愛、明日香、有紀も大学時代からはれのことはよく知っている。

 そんなわけで美弥とはれは小さい頃からライバルと言われ続けてきたが、敵対しているような関係ではなく、美弥も含め四人とも、新高輪フィルハーモニーに行くかは別として、またはれと一緒に五人で演奏したいという気持ちが強かった。

 その後少し、愛と明日香は二人で話していたが、取り留めもない世間話をしていたようだ。


「じゃあ、私は明日、早い時間の新幹線で帰るからから」

きつくないやさしい口調とイントネーション。美弥は有紀の大阪弁が好きだった。

「みんな元気でね。私も明日、名古屋に帰るの」

明日香もこの夏は実家に帰ると言っていた。

そうして、有紀と明日香の二人は控室を出ていった。


 白いワンピースに着替えた美弥は白の帽子をかぶる。普段着がいつも白一色に近い美弥はオーケストラ演奏のときのブラックコーデが一段ととして見える。白いフクロウのマスコットがついたヴァイオリンケースを肩にかけ、衣装を入れた白いキャリーバッグを持ち控室を後にする。

 久木田は鎌倉出身で少々遠いが家から都内に通っていた。ホールを出たところで久木田と別れる。

「じゃあ、美弥ちゃん。また、休み明けにね」

「失礼します」


 人ごみの中を新宿駅まで歩く。団員達も最初は「君、白好きだね」と『少し変わった子だな』という感じで美弥に声をかけていたが、変わった人が少なくないこの世界ではすぐに受け入れられた。

 しかし世間一般ではやはり目立つ。人種の坩堝るつぼのような新宿の雑踏のなかでも白一色の美弥……性格はおとなしいが、服装はかなりキャラが立っている。そして、まったく周りを気にする風もなく、いつもの小田急線に乗り、流れる景色を見ながら家路につく。

そんな七月のこと。

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