第8話 彼女に背中をぴたりくっつけ、ふさり実った、たわわを見下ろす。
一歩一歩、音立てないように。関節が減ったみたいに、体が硬くなりながら、下半身の、尿意でないむずがゆさを覚える。
真正面から覗くと、ただ、畳と、奥の壁の箪笥が見えるだけだったので、斜めに見る。紅葉さんの母親が、ゆりかごで眠る赤子から背を向け、たぷんとした乳房の片ほうを、両手で円形に挟むようにしている。女性のよくする、崩れた姿勢の太もものそばには……なんだあれは。哺乳瓶と思ったけれど、違う。メモリのある瓶の口に、吸盤みたようなのがくっついている。搾乳機ってやつだろうか。
キャミソールはすっかりめくられた乳の上に、ずれ落ちそうな様子もなく乗っている。母乳を絞っているようだ。彼女は両手を握るたびに吐息のこもった声を漏らし、そうして吸いつきやすそうな、ぷっくり膨らんだ乳首のさきからでた母乳を、膝上のタオルで拭き取っている。
恐らく、搾乳機は壊れたのだろう。
彼女の顔が動いた、目が合う。彼女はすこし目を見張って、眉を困らせ首を曲げて「あらあら」と言った。そんな様に見とれながらも、僕は脳内で言い訳を考えていた。
「厠の場所を、聞こうと思って……それで」終わった。
「あの子に聞かなかったのかい?」キャミソールが手に引っ張られ、乳房を覆い隠した。
「わ、忘れちゃって」
「裏手から出て、右手にある小屋だよ」
彼女は優しくそう言った。
「痛いんですか?」思わず聞いてしまう
「痛いって、何がだい」
「その」
僕と同い年の子を持つとは思えない、若く、窓からの傾きはじめた陽に照らされた口元が綻んだ。唇の端の、ちょっと上にあるほくろが、艶めかしさを増長している。
「これのことだろう?」両手のひらで、下乳から押し上げられた乳房が、薄手のキャミソールの向こうから挑発してくる。「搾らないと、詰まってぱんぱんになっちゃうんだよ」
「それで搾るんですか」
「ああ、でも、ついさっき壊れてね。昨日までなんともなかったのに」
やはり、搾乳機だったのか。畳の上に倒れたそれは、彼女にとってごみだろう。しかし僕には、それがなんだか、彼女の淫靡さをさらに彩っているように思われた。
「手では、絞るのは難しいですか」怒らないので。ずけずけ聞いてしまう。
僕がそう言う間、彼女はこちらをぼんやり見つめていた。僕でも彼女自身でもない、どこか遠くのことを考えているみたいだ。
「ん?」と彼女は言った。「ああ、手は慣れないね」
下半身の熱が、僕の全身を包むのがわかった。
「僕、搾るの上手いんですよ。といっても、牛の乳搾りのほうですが」
襖をがらり開けて、足音立てて歩く。
「何を言うんだいあんた。さっさと小便してきな」長い腕が交差され、乳房全体が覆われた。
僕は彼女の背後にまわって「駄目ですよ、きちんと絞らなきゃ。病気になっちゃうんでしょう?」と言った。彼女の座高は、ちょうど僕の頭一つ分、低いくらいだ。
振り返ると、赤ん坊が安心しきった表情で寝ている。
彼女の肩に触れる。その肩を揉んでみる。
「そうだけど……」と彼女は言った。声色から、動揺しているのがわかった。
はっきりとした拒絶はない。押すべきだ。
「もし母乳が飲めなくなれば、この子が困ります。ほら、力を抜いて、楽に考えてください」
肩の感触は、なるほど鬼族である。女性であるのに筋肉質だ。
「でも、旦那が」
「旦那さんは、何をされているんですか」
「漁師さ、だからなかなか帰って来れないんだ」
彼女の顔を覗くと、まぶたを重たそうにして、視線を箪笥の上に投げていた。そこには写真があった。家族写真のようだ。彼女と、筋骨隆々の旦那さん、その間に、今より幼い頃の紅葉さんが居る。
きっと、この赤ん坊含めた写真は撮れていないのだろう。
「旦那さんにも、元気な赤ちゃんの姿、見せたいじゃありませんか。良いですね?」
「駄目に決まってるだろう、早く行きな」
「ほんの一、二分です。僕が触れる時間は経ったそれだけです。それだけあれば、奥さんに搾り方をお教えできます。旦那さんに悪く思う必要はありません。だって、この子のためなんだから」
彼女は首を曲げて、物憂げな瞳を赤ん坊に向けた。「そうだねえ、それぐらいだったら……」
息を呑む。彼女に背中をぴたりくっつけ、ふさり実った、たわわを見下ろす。暖かそうな谷間に、吸い込まれそうになる。
「で、では、揉みますね」
彼女はすぐに返事せず、ちょっと黙っていた。そうして僕を見上げて「お願い」と言った。
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