第7話 襖の向こうから、艶っぽい、吐息交じりの声が聞こえる。

「実は僕、一週間前からお風呂入ってないんだ」と僕は言った。

「なにっ!」と男は僕を手放した。女みたような高い声だった。


 小走りで彼から距離を取って振り返る。彼は澄ました態度を取り戻すように、こほんと演技がかった咳をしていた。そうして僕を睨むが、追ってくる様子はない。

 はあ、良かった。


 問題ありながら門前にやって来た。まだ紅葉さんの姿はない。またあいつと遭遇するのは嫌だから、門壁の裏の茂みに隠れていよう。


 それから五分ばかりして、紅葉さんが到着した。僕を探しているのか、周囲を見渡している。こうやってちょっと遠目で見ると、なんともボリューミーな体だ。肉付きが良い。彫刻のような、一種の完成された美しさがある。見惚れてる場合じゃなかった。


 茂みを片手でわけながら僕は「紅葉さん」と言った。彼女はすこし驚いた様子で僕を見た。

「お前、そこから来たのか」彼女は僕の背後の茂みに視線を向けた。

「はい」

「なんでまた」

「お、驚かせようと思って」

「驚くわけないだろう」紅葉さんはつっけんどんに言って、腕を胸の下で組んだ。  

 たたでさえぴっちりな胸が、組んだ腕に引っ張られ、さらにもっちり存在を強調している。


 僕らは門前に立った。そこで、僕らの住所が全く別方向にあるのが分かった。

「そうか、じゃあまた明日な」紅葉さんは背中を猫にして歩いて行く。

 今の彼女はまさにとぼとぼ歩いている。

「待ってください」と僕は慌てて言った。「百均がどこにあるか、分からなくて」


 紅葉さんの背筋が猫ではなく、ぴんと立った。

 

 百均は、紅葉さんの家を暫く真っすぐ通り過ぎたところにあるそうだ。そういえば、家に帰ったらパムさんが特訓すると言ってたけど、大丈夫かな。大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。ほら、僕はこうやって今、女の子と並び歩いている。これだって立派な特訓なのだ。


 なだらかな坂をのぼって、おりて、二、三分歩いたところに紅葉さんの家はあった。彼女が家で休憩していけというので、甘えることにした。玄関先で紅葉さんが先に家へあがって、僕が遅れて靴を脱いでいると、廊下の途中の襖がするり開かれ、赤ん坊を抱えた女性が出てきた。紅葉さんのお姉さんだろうか。


「お帰りなさい」と女性は紅葉さんに言った。そうして、体をちょっと斜めにして僕を認めた。「あら、お客さんじゃないか」

「こんにちは」紅葉さんに顔つきが似ている。一本角だ。赤ん坊も。

 

 鼠色のキャミソールに、うおっ。さっきまで授乳中だったのだろうか。小ぶりなコルクのように、乳首の片方が大きくなっている。きっとこの乳首からミルクを与えていたに違いない。慌てて視線を宙に逸らす。玄関の天井の、灯っていないランプが、僕の乱れた感情を知らんふりしている。赤ん坊は女性の胸に顔を埋めている。むにゅんと、顔の重みで乳房が形を変えている。


 紅葉さんは「ただいま」とそっけなく返事して、女性の傍に歩いて行った。そうして赤ん坊を見たが、赤ん坊のすやすやしている様に、なにか諦めた顔になった。抱っこしたかったのかもしれない。

「上がれよ」と椛さんは、その諦めた顔のまま僕に言った。

 

 紅葉さんの部屋は、案外女の子らしかった。部屋に入る前、彼女が一分待てと言われ、その後に入ったのだが、急いで掃除したという訳ではなさそうな綺麗な部屋だった。


 二人で、部屋の隅の折り畳みテーブルを組み立て、座布団を尻に真向いに座った時、扉が叩かれ開かれた。さっきの女性が、盆を持っている。盆の上には茶碗が二個ある。

「お茶しかなくて、ごめんね」と女性は落ち着いた仕草で、テーブルの上に茶碗を置いた。「娘と仲良くしてよ」

「もうママ、やめてよ」紅葉さんのそういう様は、すこし幼く見えた。


 ママって言ったぜ今。ママ!? とやや時間差あって心のなかで叫ぶ。ママは、娘の不機嫌そうな表情に微笑み返し、僕にウィンクしてそそくさ出て行った。ママの乳首のさきっぽは、濡れて、そこだけが濃い鼠色になっていた。


「お前、出身はどこなんだ?」紅葉さんは前傾して、胸を卓上に乗せた。

「相模の方からです。紅葉さんは、ずっとここなんですか」

「敬語を使うな、ぶん殴るぞ」

「は、はいっ。わかり、わかった」


 真向いに座る紅葉さんとこうしてぎこちなく会話しているうちに、僕は催してきた。股間によくないものを立て続けに見せられたせいかもしれない。

「厠を借りたいんだけれど……」


 二階の紅葉さんの部屋から階段を下りると、襖の向こうから、艶っぽい、吐息交じりの声が聞こえる。

 尿意が、どこかへ消えた。足を忍ばせ、襖の方へ歩く。近づくと、襖がわずかに、指の幅くらい開いているのが分かった。覗けと、僕の悪い一部分ではなく、全身全霊が大声で言った。


 





 



 


 




 

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