第369話 ホールリハーサル前日 リハーサル(七)

『グラン・パ・クラシック』

 久宝くぼうすみれが最も得意とするヴァリエーションだ。ポジションの正確さ。無類のバランス感覚。


 このヴァリエーションは物語のある全幕作品の中のパ・ド・ドゥの一部ではない。まったく独立したグラン・パ・ド・ドゥのみの作品だ。

 グラン・パ・ド・ドゥという形式なので、男性が女性をサポートしながらゆっくりした曲で踊るアダージオ。続いて男性のヴァリエーション。そして女性のヴァリエーション。最後に、男性、女性がそれぞれのテクニックを披露するコーダ。

 この女性のヴァリエーションが、今回、すみれが踊るヴァリエーションだ。


 オーベールの華やかな曲で踊られる『グラン・パ・クラシック』は男性、女性とも高度なテクニックと細やかで正確なポジションを取りながら踊ることが要求される。

 バレエの種類としても民族舞踊的な力強さや、野性的なしなやかさで見せる跳躍、回転技を特徴とした『ドン・キホーテ』『海賊』などと異なり『くるみ割り人形』『白鳥の湖』『眠れる森の美女』などの主役に見られるノーブル系の踊り、王子様、お姫様の踊りに類する踊りといえる。しかし、一方で細やかで正確な足捌あしさばきき、高度な技術の中で正確なポジションを求められる難度の高いクラシックバレエ作品である。

 また、この作品はグラン・パ・ド・ドゥのみであることからガラ公演で上演されることが多い。世界中でテクニックのあるプリンシパルたちによって踊られることが多いこともあり、最高難度の踊りに位置付けられる作品だ。


◇◇◇◇◇◇


 すみれが舞台の中央に立つ。優雅でテンポの良い曲が始まる。曲のリズムを寸分の狂いもなく踊りで表現していく。その一つ一つのポジションがまるでクラシックバレエの教科書であるかのように正確に形を表現していく。美しく安定感のあるバランスは見ている者に安心感を与える。

 美しいアンディオール。足のポジション、腕のポジション、体の向き、全てが完璧で美しい。

 何という正確無比な踊りだろう。小さなゆい知里ちさと、真由もポカンと口を開けて見入っている。

 最後のマネージュからポーズ。

 稽古場に拍手が鳴り響く。美和子や香保子かほこもこの踊りを見て、初めて、すみれが如何いかに凄いダンサーであるか思い知らされた気がした。真理子やあやめも言葉がないという表情で拍手する。周りで見ているお母さんたちも興奮気味に近くにいるお母さんと視線を交わしては微笑みながら拍手を送る。


 と、その時、小さな唯が嬉しそうに、すみれのところに駆け寄って行った。

「すみれ先生」

 と唯がにこにこしながら、すみれに話し掛ける。すみれが優しく唯の頭を撫でると、嬉しそうに、すみれの前で『グラン・パ・クラシック』のヴァリエーションの中盤の部分の振りを真似して踊って見せる。

 教室に居合わせた誰もが、唯の踊る姿を見て言葉を失った。ここの教室で一番小さな唯が、今見たばかりの踊りをもう覚えたのかと、その信じられない光景に目を疑った。

 教室の全員が、小さな唯を見て、すみれに「ここを覚えた」と言いたいのかと、驚きながら、その様子を見ていた。


 唯が踊って見せたのは、このヴァリエーションの一番の見せ場である舞台上奥ぶたいかみおくから下前しもまえに斜めに移動する一つ前の部分だった。

 誰もがあまり気にしていないような一番の大きな見せ場への繋ぎのようなパートだ。

 右足を小さくアラセゴンド・ディベロッペ二回、そして、二回のルルベでアチチュードターンを一回転。その後、もう一度、一回、右足を大きくアラセゴンド・ディベロッペするという動きをしながら舞台下前ぶたいしもまえから上奥かみおくに戻っていくパート。


「……」

 すみれが少し青ざめた表情でゆいを見つめる。

 唯の踊りは教室の他の全員とは、まったく違う驚きで、すみれの心を突き抜いた。


 踊りを見せながら唯が言った。

「すみれ先生、ここの足を三回目にあげるのがちょっと遅かったの」


 青葉あおばと真理子、松野が顔を見合わせた。オーケストラの恵那えな久木田くきた、有澤も顔を見合わせ言葉を失った。

 稽古場にいる全員の間に凍り付くような緊張が走った。

――――――

〇ガラ公演

いろいろな作品の主役の踊り、有名な踊りを抜粋してコンサート形式で演じる公演、発表会など。


〇アラセゴンド(ア・ラ・セゴンド)(ア・ラ・スゴンド)

2番の意味。ポジションの2番を意味する。

他、足が横にあること。足を横にあげることを意味する。


〇ディベロッペ

「発展する」という意味。バレエの足を上げる動きで、右足を上げる場合、右足の膝を曲げたまま、右足のつま先を軸足の左足に沿わせるように左足の膝辺りまで上げてくる。その後、右足の足先を遠くへ意識しながら膝を伸ばす。


〇ルルベ

踵をあげて立つ。足首の甲を張り出すように一番高いところまで立つ。

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