第321話 秋の文化イベント(五)『ラ・バヤデール』(二)

 舞台は『かげの場』のコールド(群舞)が終わり、いくつかのヴァリエーションが続く。

 山野バレエの踊りも残すは、佐野恵梨香の『ガムザッティのヴァリエーション』と小田原由美の『ニキヤのヴァリエーション』という、この作品の中で戦士ソロルという男性を巡って争う主人公とそのライバル女性の踊りだ。

 今回の山野バレエの『ラ・バヤデール』は、主人公ニキヤの恋人で、ガムザッティの婚約者である戦士ソロルがそろえば作品の主要人物がそろう構成だった。


 恵梨香が準備しているところに優一が後ろから声を掛ける。

「次、恵梨香ちゃんの前に、僕が一曲踊るから」

「えっ!」「あ!」

 という恵梨香と由美の驚きとも悲鳴とも取れる声が舞台袖ぶたいそでから客席まで響いた。

 白銀色の地に緑色の美しい刺繍、飾りで彩られた美しい衣装を着た優一。それは戦士ソロルの衣装だ。恵梨香と由美が言葉を失った。

 そんな二人の肩を軽く叩いて舞台に向かう優一。

 恵梨香と由美以外の生徒は舞台上の上手かみて下手しもてに分かれて、次の恵梨香のヴァリエーションを待っている。舞台上のダンサーたちはそでから聞こえた恵梨香と由美の声に少し驚いた様子だったが、皆、何があったか分からず不安な表情を浮かべた。


 次の瞬間、舞台の上奥かみおくからソロルの衣装に身を包んだ優一が登場した。

 コールド(群舞)の全員が舞台の上で思わず声を漏らした。

「ええ!」「うそっ!」

 それはテレビや雑誌でしか見たことがない。青山青葉あおやまあおばバレエ団のプリンシパル優一のソロルの姿だった。映像でしか見たことがなかった大スターの演目。まさに、その衣装で優一が皆の目の前に現れた。

 コールド(群舞)のダンサーは全員がポーズをそろえ、その立ち姿でポーズを崩してはいけない。そんな彼女たちが我を忘れたかのように手で口元を覆ったり、後ろを振り向いたり。

 バレエを初めて見る観客でも、この舞台上の様子が、あってはならない状況であることはわかる。

 しかし、ここまで完璧に踊ってきた彼女たちが、これほど動揺する姿に、今、舞台に登場したダンサー優一がどれほどのものか、知らないまでも、何か、とんでもないことが舞台上で起きていることは察しがついた。

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