第289話 真美 第一幕キトリのヴァリエーション

 真美が稽古場の中央に立つ。美織みおりがデッキについて音の準備をする。

 すみれが鏡の前にやって来た。美和子と香保子かほこは隣に立つすみれに緊張の表情を隠せなかった。彼女たちにも、先程のキューピッドの振り付けから、すみれがとてつもないレベルのバレリーナだということはわかった。二人の緊張と興奮が園香にも伝わる。


 ゆいと真由は、すみれが近くに来て喜んでいる。すみれにすり寄っていく唯と真由。すみれは唯と真由の頭を撫でる。


 稽古場のセンターで少し振りと踊る位置を確認する様にして、真美が下手前しもてまえ(すみれや唯たちから見て左前)に準備する。バレエ『ドン・キホーテ』の一幕、この踊りでキトリが登場する場所だ。


 全幕バレエ『ドン・キホーテ』で両手に持ったカスタネットを打ち鳴らしながら下手前しもてまえから上手奥かみておくに走って行く。

 今回の真美の踊りではカスタネットは持たない。上手奥かみておくでポーズを取ったところで曲が入る。


 パ・デ・シャから右足をエファセ・ドゥバンに高く振り上げる。そして右回りのピケ・アンデダン。いきに細かく足を刻むパ・ド・ブレで上手奥かみておくに移動し踊り始めた位置に戻る。もう一度同じ振りを繰り返す。軽いパ・デ・シャから大きく足を振り上げる。素早くピケ・アンデダン。一瞬に軸をまとめかろやかに回転する。パ・ド・ブレはリズムを刻むような独特のパ・ド・ブレ。

 軽いジャンプで両足を五番ポジションにそろえた後、この踊りの見せ場の一つ、両足で大きくジャンプ。シソンヌ・フェルメ、両足を一気に前後に開く。前に出す足は前方斜め下の向きに張るようにし、後ろに振り上げる足を大きく振り上げ、上体を大きく後ろにらす。真美のシソンヌは後ろに振り上げた足が、反らせた上体の頭の上を越えてくるほどの柔軟性を見せる。

 思わず見学していた者たちから「おお……」と、驚きの声が漏れる。唯と真由が目を丸くして見入っている。

 両足を五番にそろえるように綺麗に着地する。低く足を前にアチチュード・ドゥバン、続けて、後ろにアチチュード・デリエール。

 もう一度、同じ振りを繰り返す。その後、舞台の上奥かみおくへ。すみれと美織、優一が射すような鋭い目線で見つめる。


 ここで全幕『ドン・キホーテ』の舞台では闘牛士の衣装を着た男性が上奥かみおくから下前しもまえに数人、舞台に斜め一列に並ぶ。

 そして最後の見せ場、フェアテ、ピルエットを繰り返しながら、上奥かみおくから下前しもまえまで移動する。並んだ闘牛士の男性の前を、十八回転連続ピルエットを回りながら移動する。


 フェアテ……リエゾン・ド・ピルエットともいう。連続十八回転といっても一回の蹴り上げで軸足に立ったら、そのまま十八回転回って着地するわけではない。一回転のピルエットを十八回繰り返す。このテクニックでは一回転一回転、着地するとき正面で下りる。回り過ぎても、回転が足りなくてもいけない。一回転、一回転、完璧な一回転のターンをする必要がある。速いテンポで連続十八回。完璧なターンを繰り返す。見た目より遥かに高度なテクニックだ。


 今回の踊りは真美のソロなので、フェアテで移動する際、男性はつかない。真美が高度な回転技の後、下手前でポーズを取る。

 キトリの一幕のソロを踊り切った。


 周りで見ていた見学者が大きな拍手を送る。唯と真由も嬉しそうに拍手する。園香も千春たちも改めて真美がこれほど凄いダンサーだったのかと驚く。おそらく初めて、このレベルのバレリーナを間近で見たであろう美和子と香保子かほこは、このバレエのテクニックを詰め込んだような高度なヴァリエーションに驚きを隠せないという感じだ。

 優一と瑞希みずきが微笑みながら拍手を送る。美織みおりも微笑む。

 真美はただ一人すみれの目線が気になった。すみれは真美が踊っている間、終始、にらむような鋭い視線で見つめていた。すみれが静かに近付いてきた。緊張する真美。


 すみれは真美の肩を軽く叩き、

「いいじゃん。瑞希より凄いんじゃない」

 と言って、真美と瑞希を交互に見て微笑んだ。瑞希が苦笑いをしながら下を向く。


「これから細かく見ていくよ」

 と言って、すみれが真美に鏡の前に行くように左手で促す。そして、美織と目を合わせて頷く。

 真美が鏡の前に座っている唯と真由の隣に立つ。


――――――

〇パ・デ・シャ(猫の跳躍)

ネコの跳躍をを意味するジャンプ。右足から始める場合、足を五番ポジションからプリエ。右足の膝を曲げながら、つま先が左足に沿うように上げ、左足で踏み切りジャンプ。空中で一瞬、足がひし形作るような形を取り右足から着地。続いて左足をそろえるように五番プリエに着地する。猫のように軽やかにジャンプする。


〇エファセ

体の向きと足の関係で、踊り手が舞台から客席を向いたとき、正面御向く向きを体の向きの一番という。そこから時計回りに四十五度ずつ刻んで向きのポジションが決められる。

まず、正面が一番。右斜め前が二番。右(正面から九十度)が三番。右斜め後ろが四番。後ろが五番。左斜め後ろが六番。左(正面から九十度)が七番。左斜め前が八番。

 これはワガノワ・メソッドのポジションです。

 体の向きが右斜め前(二番の向き)のとき、右足を前(ドゥバン)に出すと客席から見てダンサーの体が開いた形になる。これがエファセ・ドゥバン。

 体が同じ向きで左足を前に出すと客席から見て足を交差させた状態になる。これがクロワゼ・ドゥバン。

 体が同じ向きで左足を後ろに出すと客席から見て体が開いた状態になる。これがエファセ・デリエール。

 体が同じ向きで右足を後ろに出すと客席から見て足を交差させた状態になる。これがクロワゼ・デリエール。


〇クロワゼ

 十字型、交差するを意味する。右斜め前を向いたとき左足を前に出す、あるいは右足を後ろに出す形。左斜め前を向いたとき右足を前に出す、あるいは左足を後ろに出す形を言う。


〇ドゥバン


〇デリエール

後ろ

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