第270話 伝説が始まったとき すみれ

「弟の僕が言うのもなんだけど、すみれちゃんは、ちょっと特別な感じかもしれないね」

 優一は小さなゆいと真由も聞いているのを意識して難しい言葉を使わないように話しているように思えた。

「ちょっと、特別……」と呟く園香そのかの言葉に、

「すみれ先生は特別?」とゆいも優一を見ながら言う。


 頷きながら優一が続ける。


「すみれちゃんが……」

 と言いかけて、優一はゆいと真由の二人の真剣な目線を見て言葉を変えた。


「すみれ先生が、バレエを始めたのは小学校の三年生のときなんだ。僕も一緒に付いて行って始めたのを覚えてる……」


 園香と真美ばかりでなく、その周りで聞いていた全員が言葉を失った。

「小学三年生? 私がバレエを始めたのは三歳だった。奈々と一緒に花村バレエに通い始めたのは三歳のときだった……バレエの世界で神様のような存在である、すみれさんがバレエを始めたのが……小学校三年生ですか……」


 唯と真由がニコニコしながら聞いている。唯が微笑みながら、

「すみれ先生は三年生から? 唯は三歳から」


 優一は唯に微笑みながら、

「そうだね。唯ちゃんは三歳からバレエをやってるね」


 園香は思った。園香がバレエを始めたのは、今の唯と同じ三歳のときだった。今度、クララを踊る由奈ゆなもバレエを始めたのは三歳のときだ……

 もちろん小学生から始める子もいるし、もっと大きくなってから始める子もいる。別に小学三年生から始めるのが決して遅いわけではない。

 ただ、あの神様の様なレベルのすみれがバレエを始めたのが小学三年生というのは、誰もが想像する以上に遅いと思った。


 周りを見ると園香たちばかりではなく、瑞希みずき恵人けいとも、周りの全員が、すみれがバレエを始めた年齢を聞いて驚きを隠せない表情だった。


 優一が唯と真由たち姉妹の表情を見ながら話を続ける。


「すみれ先生は青山の小学校に入学したんだ。あの青山青葉あおやまあおばバレエ団、バレエ学校のすぐ近くにある小学校だね。その小学校の時、友達に誘われてバレエの発表会を見に行ったんだ。青山青葉あおやまあおばバレエ学校の発表会だよ」

 唯と真由が頷きながら聞くのを見ながら、優一が微笑んで続ける。


「発表会を見て、すみれ先生がバレエを始めたいと言って、青山青葉あおやまあおばバレエ学校に通い始めたんだ。稽古場も学校の近くにあるからね。だから、青山青葉バレエ学校に通い始めた」


 隣で聞いていたげんが頷くのを見ながら、優一が続ける。


「当時、バレエ学校には既にげん先生、とおる先生、今は衣装係をしている、ほら今回も来てくれている来生由香きすぎゆか先生とティアラの鏡一花かがみいちか先生という優等生がいた。由香先生と一花いちか先生もバレエを踊ってたんだよ」


 唯と真由が顔を見合わせて、

「えー」と言う。


「そこに京都から時々レッスンを受けに来ていたのが九条古都くじょうこと先生だった。古都こと先生は中学生のとき東京に引っ越して来て、それから青山青葉あおやまあおばバレエ学校に入校したんだ。古都こと先生は、それまで、ずっと京都でバレエをやってたんだね」

「へえー」ゆいと真由、佐和と理央りおも顔を見合わせる。

 真美が言葉を添える様に、

「京都の宝生ほうしょう先生とこよ」

 と言うと、

「へえー」と全員が顔を見合わせた。優一とげんが微笑んで頷く。


「そんなところへ、すみれ先生と弟の僕が通うようになったんだ。すみれ先生は小さい頃から運動が好きだったんだね」


 そこまでの話も興味深く聞いていたのだが、その次の優一の話に惹きつけられた。


「すみれ先生は、バレエを始める前は、小さい頃から家の近くにあった体操教室に通っていたんだ。そこですごく熱心に稽古をしていてね。すみれ先生は、体操教室の中でも体の柔らかさとバランス感覚がずば抜けていたんだ。体操の先生から『すみれちゃんみたいなすごい子、今まで見たことがない』って言われてたんだ。たくさん生徒がいたんだけど、先生から『今まで教室に来た生徒で、こんなに柔らかい子は見たことがない』とも言われていたし、バランス感覚は、幅がわずか十センチほどの平均台の上で、いつまでも片足で立っていられるし、片足で安定してターンができる、ジャンプができる……すみれ先生のバランス感覚、体幹の強さは規格外なんだよ」


 園香そのかも真美も呆然とした。ゆいや真由たち、瑞希みずきや周りにいる青山青葉あおやまあおばバレエ団のメンバーも驚いた表情を見せた。運動が好きというレベルではないと、周りにいた全員が驚きを隠せなかった。


 近くで聞いていたげんが言葉を添える。げんもキッズクラスのゆいや真由たちが聞いているのを意識して優しい言葉で話す。

「すみれ先生は青山青葉あおやまあおばバレエ学校に来た時から特別だったんだね。すぐに、青葉あおば先生の目に留まったんだ。すみれ先生の常人離れした柔軟性とバランス感覚。バレエを始めるのは決して早かったわけじゃないけど、上達のスピードが尋常じゃなかった。一度覚えた感覚を体が記憶する。その柔軟性から、すみれ先生の一番美しいポジションを正確に取れるし、何より踊りにはながあったんだ。すみれ先生はピアノも習っていたようで音楽に対する感覚もすごかったんだ。何もかもが完璧すぎて、他の先生たちも、どこか、すみれ先生には、声を掛けにくいような感じだったんじゃないかな」


 優一もげんの言葉にかすかに頷いたようだった。


 ゆいが何か考えるような表情で優一とげんに聞いた。

「すみれ先生、すごい。でも、すみれ先生には、先生がいなかったの?」


 優一とげんが顔を見合わせて微笑む。そして、優一がやさしくゆいに話す。


「いたよ。すみれ先生にもバレエの先生が、すみれ先生より少し年上のお姉さんで、すみれ先生が憧れていたバレリーナ、深山純華みやまじゅんかさんっていうバレリーナがいたんだ」


深山純華みやまじゅんか先生……」

 ゆいが呟くように言う。


 さらに優一が言葉を添える様に、

「そう、そして、その純華じゅんか先生とすみれ先生の先生が青葉あおば先生と花村真理子先生なんだ」


「真理子先生……」

「そう、この前も、真理子先生は青山青葉あおやまあおばバレエに来てくれてたけど、その頃、すみれ先生や僕が子どもの頃も、よく青山青葉あおやまあおばバレエに来てくれてたんだよ」


 ゆいと、その席にいた花村バレエ、そして青山青葉あおやまあおばバレエ団の全員が、すみれや真理子、青葉あおばのテーブルの方に目を向けた。

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