第97話 青山青葉バレエ団 神様からの誘い

 バレエ『白鳥の湖』の中で黒鳥オディールのヴァリエーションには二種類の踊りがある。少し長めのやさしい感じの曲で踊るヴァリエーションと、もう一つは短くオディールの魔性を引き立たせる妖艶な曲で踊るヴァリエーション。

 古都ことが踊るのは妖艶なオディールの曲。どこか神秘性を感じさせる美しい曲だ。


 すみれが、ゆっくりなにかを確かめる様に稽古場の奥(後ろ)の方に歩いて行く。そして、指揮者の恵那えなに目で合図を送る。ハープとオーボエの奏者が構えた。

 古都ことが稽古場の前の鏡の方にやって来た。

 稽古場全体がまるで何かを待っているように静かになった。

 すみれは一瞬、静かに目を閉じ息を整える。


 その瞬間、世界から音が消えた。


 すみれが目を開けた瞬間、稽古場にいる全員がぞくっとした。まるで、なにかが憑依したような、すみれの放つオーラが一瞬に稽古場全体を包み込んだような錯覚にとらわれた。


 ハープのカデンツァとともに、すみれが舞い降りて来たかのように登場する。それは黒鳥オディールそのものだった。

 最初の振りと同時にオーボエが入る。幻想的なオーボエの響きと、美しいすみれの踊り、表現力は、一瞬で稽古場全体を妖艶なオディールの世界に変えた。


 圧倒される……


 これはバレエ『白鳥の湖』の中で、オディールが王子を誘惑し、この後、王子が彼女に愛を誓うという場面につながる踊りだ。


 今まで古都ことの踊りを見てきて、その技術と表現力の高さに驚くばかりであった。


 しかし、今、すみれの踊りをの当たりにして、少なくとも、この黒鳥のヴァリエーションにおいては、誰もが言葉を失うほどの凄まじい表現力があると感じた。

 この場にいる世界のプリンシパルたちも言葉を失い茫然と見入っている。なんという圧倒的な表現力と技術だろう。


 何が違う? 園香そのかは冷静に考えた。

 何か今まで見たこのヴァリエーションを踊るダンサーと決定的に違う何かがあるような気がした。

 何が違う? 決定的な何かが彼女にはある。

 魔性とか、そんな神秘的な、つかみどころのないものではない。そんな非科学的なものではない何かがある気がした。


が違うのよ」

 隣にいた美織みおりが小さな声で園香に囁く。


「え?」

「動きと動きの間の『』の使い方が違うの。その瞬間の彼女の目線、表情。気が付かないくらい瞬間に魅せる表現……一瞬、一瞬、観ている人自身も気付かないほど……一瞬。まるで観ている人の心の底に響くような衝撃。気付かないうちに……強烈な印象を残される……観る人の心を操る魔性のような表現力。すみれさんは、そういうものを天性として持っているみたい」


 恵人けいと、優一ばかりでなく、世界のプリンシパルと言われるルエルも、壁にもたれるようにして見ていたディディエ、ラクロワも体を乗り出すようにして彼女の踊りを見る。


 最後のマネージュ。美しく軽やかで、何か幻想的にさえ感じる。

 踊り終わってポーズを取る。


 静まり返る稽古場。誰もが拍手をすることすら忘れる。

 そして、スッと古都ことの方に目線を向ける。


 古都ことが拍手をするのと同時に、周りで見ていた者たち全員から思い出したように拍手が起こった。

 園香もその圧倒的な表現に完全に飲み込まれてしまった。隣で瑞希みずきが羨望の眼差しで拍手を送っている。


 ふと気付くと、すみれが目の前に立っていた。瑞希と一緒にストレッチをしながら見ていた園香。思わずスッと背筋を伸ばして立ち上がった。


 すみれが流すような横目で園香を見て微笑む。


「明日の朝のレッスンに来なさい」


 ドキッとする園香。

「はい」


 すみれは、もう一度ゆっくり園香の方に向き直り、


「園香さんと言ったわね『金平糖の精』見てあげる」


そう言って去って行った。

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