第86話 バレエフェスティバル 『くるみ割り人形』衣装付きリハーサル

 バレエ『くるみ割り人形』のグラン・パ・ド・ドゥを美織みおりと優一が踊る。

 アダージオ。美織の一つ一つのポジションが正確、繊細で美しい。踊りの表現の豊かさ。まさに非の打ちどころがないという感じだった。観覧席で見ている他のバレエ研究所、バレエスタジオの先生方も拍手を送る。


「ねえ、そのちゃん、この二人って全部の踊りをこんな感じで踊り始めんの?」

 真美の質問に園香そのかは何を聞かれているのかよく分からなかった。

「え?」

「いや、さっきの『エスメラルダ』もそうやったけど『くるみ』のアダージオも、ピルエットのサポートとか、プロムナードとかリフトの確認とか、全然せずに、そのまま曲で踊り始めるやんか」

「ああ、この二人は何回も踊るの見てるけど、いつもこんな感じだよ」

「ターンのサポートとかプロムナードとか、まったく確認せんの?」

「うん、そうだね」

「……」

 不思議そうな顔をする真美。

「慣れてるんじゃないの。いつも一緒に踊ってるから」

「慣れてたら、確認なしでアダージオ踊れるの……」

 確かに園香が恵人けいとと踊るときも一度は確認してから踊り始める。


「なんか、あれやな、手と足だけぶらぶら振って、それだけでプールに飛び込んで泳ぎ出すみたいなやつやんなあ」

 真美が何とも言えないという風な表情で呟く。

「屈伸運動とか、アキレス腱伸ばすのとかするやんか」

「ま、まあ、ストレッチとバーレッスンは、いつも念入りにやってるよ」

「バーか、これパ・ド・ドゥやで、二人で合わさんのんかいってことやん」


 真美が美織と優一の方に視線を向ける。

「天性か……」


 園香は真美が何を気にしているのかと思いながら彼女の方を見つめていた。

 しかし、それよりも、こんなにバレエのことを知っていて本格的にやっていた女性が同じ大学の友人にいたことに驚いた。


 真美が続けて呟く。

「優一さんってチュチュ着た女性の軸。確認なしでよくわかるな」

「え?」

「いや、チュチュってスカートが広がってるやんか。女性の後ろでサポートできる距離に立ったら男性はスカートで女性の足が見えんで。だから軸足がどこにあるかわからんねん」

「?」

「軸がどこにあるかわからんコマを回してるようなもんや。踊る前に確認なしで、よく女性の軸をずらさずにサポートできるなあって思って……」


◇◇◇◇◇◇


 そうなのだ、チュチュで踊ると慣れてないと一々感覚が狂ってしまう。ターンばかりではない、リフトも近くで踏み切られると足が見えないため、ギリギリのところで、どこに踏み切っているかわからない。

 上半身の体の向きだけでは正確にはわからないのだ。無意識に踏み切る足の位置や足の向きで、どの方向に跳んでくるか判断しているのだ。

 チュチュで踊られると、その直前の情報がスカートで見えなくなる。

だから踊るまえに確認する。確認することによって足が見えなくても、だいたいこの辺りに跳んでくる。ターンも、だいたいこの辺に軸がくるように立って回るという感覚を覚える。もちろん、その時々によって変わってくるが、それでも、踊る直前に確認することで、だいたいの感覚がつかめる。


◇◇◇◇◇◇


 美織と優一はいつものように『くるみ割り人形』のグラン・パ・ド・ドゥを踊り切った。

 美しいアダージオは表現力の豊かさに誰もが言葉を失った。

 続く男性ヴァリエーション。優一の踊りは気品ある踊りで美しく完成されている。

 そして幻想的で夢でも見ているのではないかと我を忘れて見入ってしまう美織の女性ヴァリエーション。

 最後は華やかなコーダで締める。見ていた者全員から拍手が渦巻く。


 この踊りが数日後にバレエの祭典と呼ばれるバレエフェスティバルで踊られる踊りだ。すべての練習メニューを踊り終え、優一と美織が真理子とあやめのところにやって来た。真理子たちも素晴らしいと賞賛の言葉を贈った。キッズクラスの子から大人まで、他のバレエ教室の先生や生徒も、みんなが優一と美織を取り囲む。

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