第63話 園香と恵人そして真理子

 午後は『花のワルツ』の振り付けから始まり『終曲しゅうきょくのワルツ』の振り付け。全員で踊る振り付けが立て続けに二つ終わった。


 青山青葉あおやまあおばバレエ団のとおるげん古都ことは初めて訪れた花村バレエ研究所の生徒たちにまるでプロのバレエ団員を相手にしているように早いペースで振り付けをしていく。

 しかし、驚いたことに集中しているからなのか、緊張が続いているからなのか、小学生高学年、中学生、高校生はともかく、キッズクラスの小さい子供や小学生低学年、それに普段のレッスンでも振りを覚えるのは苦手とこぼしている大人クラスのレッスン生まで、全員が振り付けに付いていっている。

 ここまでのとてつもなく複雑な構成、とてつもないスピードの振り付け、初めてで慣れないプロの先生の振りに付いていっている。


『終曲のワルツ』まで終わって休憩に入った。


 小学生の生徒たちが中学生たちと振りを確認し合っている。高校生たちと大人クラスのまだ振り付けが覚束おぼつかないレッスン生が一緒に振りを確認している。

 今まで稽古場で見たことがない光景だ。園香そのかや奈々もみんなの集中力、今までに見たことがない心地よい稽古場の緊張感に驚いた。


 先程『花のワルツ』でぶつかった高校生、大人クラスの男性、キャンディの女の子がもう一度動きを確認している。三人で微笑みながらそれぞれの動きを確認する。高校生の生徒がキャンディの女の子の頭を撫でながら微笑む。女の子は笑顔で大人クラスの男性に何か話している。男性が笑顔でそれに応える。三人が笑いながら、もう一度動きを確認する……

 もうこの三人のところは心配ないようだ。おそらく、この場面で三人はお互いの踊りタイミングを意識して本番でも踊れるだろう。たとえ何かハプニングがあっても臨機応変な動きができる。そんな風に見えた。


 奈々がスペインの踊りを一緒に踊る雪村希ゆきむらのぞみと『花のワルツ』の振りを確認する。


 恵人けいと園香そのかのところにやって来た。

「アダージオの振りは大丈夫?」

「もう一度お願いしていいかな」

頷く恵人。一通り振りを確認する。

「コーダも少し確認したいな」

 園香の言葉に恵人も頷きそれぞれの動きを確認し、最後に二人で合わせるところまで踊る。

 最後はリプカ。しかし『ドン・キホーテ』のような派手な見せ方ではなく、恵人は園香を包み込むようにやさしく見せる。サポートする腕を女性から離して華やかに見せるのではなく、両腕でやさしくサポート、園香は斜めやや下、遠くに腕を伸ばすように美しいポーズを見せる。

 近くで見ていた真理子が頷きながら微笑む。

「目線が違うわよ」

「はい」

思わず注意されたと思い園香が返事をする。

真理子が首を振りながら、

「ここの場面をそういう振りで見せるなら……園香ちゃんは、そう自分の指の先、その先を見つめる視線でいいの。恵人君は園香ちゃんと同じ指の向こうを見るんじゃなくて、園香ちゃんの指先あたりを見るの。お姫様は自由奔放なところもあって遠く、その先を見つめる感じでいいけど、王子さまは、どの瞬間もお姫さまから目を離さず見守っている感じ、だから彼女の指先より遠くじゃないの。彼女の指先ぐらい。彼女から意識を外しちゃだめよ」

 そう言って笑顔で恵人の表現を指導する。恵人がその部分をもう一度確認する。

「そうです、そうです。気品のある王子とはそういう意識を常に持っているものです。お姫様と一緒に舞台にいるときは、どの方向を向いても、どこにいても彼女を見守るように意識してあげるの……彼女に対する、あなたのその意識がお客さんにも伝わるのよ」

そう言って真理子は歩いて行った。


 二人でもう一度最後まで振りを確認する。

「ね、ねえ、ところで私、恵人さんのことをなんて呼んだらいいのかな。普段敬語じゃなくていいってよく言われるけど」

「え、なんでもいいんじゃない」

「恵人先生?」

「いや、それじゃ敬語レベルでしょ」

「恵人さん?」

「年は同級生でしょ。先輩じゃないし」

「恵人……君?」

頷く恵人に少し顔を赤くする園香。

「僕は園香ちゃんでいいよね」

「うん」

園香は、ここに来てやっと、少し距離が近づいた気がした。


 少し恥ずかしさもあり慌てて話を変える園香。

「あ、そ、そうだ。ねえ、ちょっと気になっていたんだけど」

「え?」

「あのぉ、うちの真理子先生って青山青葉バレエの人たちにとって、どういう人なの? なんか自分の先生のことをこんな風に聞くのちょっと変だけど」

「先生、先生だよ」

何を聞かれているかわからないという感じの恵人。


「え、と、なんか、今までのいろいろなゲストの先生方への接し方と違って、なんか違和感があるのよね……さっきだって、普通、ゲストの、しかも名門バレエ団のプリンシパルの恵人君に王子の表現を指導するかなぁ」


ここまで、何か違和感を感じていた園香……


 今まで花村バレエ研究所に来たたくさんのゲストの先生への真理子の接し方と、青山青葉バレエ団のゲストの先生方への真理子の接し方が何か違うような気がしていた。

 たとえ、どんなに若いゲストに対しても先生として接し、先生であるゲストダンサーの踊りや表現に、真理子が指導する姿など見たことがなかった。しかし、青山青葉バレエ団のゲストに対しては何かが違う。


 今までここのバレエ研究所を訪れたゲストダンサーも素晴らしかった。しかし、今回の彼らは日本屈指のバレエ団に所属しているダンサーたちだ。

 しかも小学生でもわかる、そのバレエ団のトップのダンサーたちが来ている。その彼らに対し、時には、真理子が指導するようなときがある。


 少し困ったような表情をする恵人。

「……」


「ちょっと前にもとおる先生とか、九条古都くじょうことさんにも……今までそんな真理子先生見たことないなって思って」


 少し考える様な表情で、恵人が園香の方を見つめる。

「これは聞いた話で、そうじゃなかったらいけないから、ここだけの話にして欲しいんだけど……」


 恵人が少し小さな声で園香に話す。

「青葉先生が若い頃、その当時はまだバレエが盛んではなくて外国の有名な先生を日本に招いてバレエを学んでいたそうだよ。その中に青葉先生も真理子先生もいて……よくは知らないけど、その中で群を抜いて上手だったバレリーナが真理子先生だったらしいよ。みんなから尊敬の眼差まなざしで見られてたみたい……ごめん。あんまり詳しいことは知らないから、ここだけの話にしといて。こんなこと言って間違ってたら、オオカミ少年になるから」


「……少年?」

「え、オオカミおじさんなんて言わないよね」

「じゃあ、オオカミ男」

「それじゃ、ホラー映画だよ」

恵人と園香が微笑む。


「あ、園香ちゃん、最後のワルツのところも大丈夫だよね」

「うん、大丈夫よ」


 向こうの方で美織みおり古都こと由奈ゆなに最後のクララのシーンの演技を指導している。真理子も横について細かく、くるみ割り人形の抱き方、由奈の体の向き、視線などを指導していく。


 最後のワルツの後、舞台が暗転あんてんする。ワルツのダンサー全員と入れ替わりに、由奈が一人舞台の中央へ……

 屋敷の広間で眠っているクララ。夜が明け……朝日が差し込み舞台が明るくなる。くるみ割り人形をやさしく胸に抱いて……幕が下りる。


その間たった三十秒……この由奈の演技で、バレエ『くるみ割り人形』は終わる。


◇◇◇◇◇◇


徹がやって来た。

「園香ちゃん、恵人、大丈夫そう?」

「はい」「はい」

頷く徹。


「じゃあみんな『花のワルツ』から『グラン』最後の『ワルツ』で、由奈ちゃんのクララのシーンまで通していいかな」


「はい」「はい」「はーい」キッズクラスの子供たちの手をあげて元気に返事をする……出演者全員の返事が稽古場に響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る