第37話 ヴァイオリニスト彩弥とバレリーナ美織

 夕方四時前からキッズクラスの子供たちが来る。元気にやって来る子供たち「先生おはようございます」「先 生 お は よ う ご ざ い ま す」「はい、おはようございます」あやめが子供たちに微笑みながら挨拶を返す。


 キッズクラスの練習を青山青葉あおやまあおばバレエの関係者全員がレッスンを見学する。キッズクラスの生徒、お母さんたちに今回来ているゲストの先生方が紹介された。

 ここでも九条古都くじょうことが紹介された時は騒然となった。


 青葉あおばとおるげん古都こと……全員が真剣な表情でレッスンを見ている。

 あやめがレッスンを担当し園香そのかが手伝っていた。園香が周りを気にしながらレッスンでいつも使っているCDの準備をする。生徒やお母さんたちでなくても、やはりゲストが気になる。見るともなくゲストの方に目を向けると、とおるが指揮者の恵那えなに何か話した。

 恵那えなが見学スペースにいたスタッフの北村に聞く。

「先生、あのピアノ……音は大丈夫ですか?」

稽古場の隅に置物のように置いてある誰も触らないピアノを指差して言う。

「はい調律はしてます。全然使ってませんけど」

「そうですか」

そう言って、恵那えながヴァイオリニストの彩弥さやに何か話した。彩弥さやが真理子のところに行く。

「ピアノ弾かせて頂いてもよろしいですか?」

「え、ええ」

ピアノのところに行った彩弥は置いてあった楽譜をペラペラと開いて目を通す。微笑んで一冊を手に取りピアノの前に座った。


 レッスンをしているあやめの方を見る。あやめが少し驚いた表情で彩弥さやの方に目を向けた。彩弥が微笑んで頷く。


◇◇◇◇◇◇


 彩弥がレッスン曲をピアノで弾く。それはアニメの曲をバレエのレッスン用にアレンジした曲だった。嬉しそうにピアノの曲に合わせてレッスンを受ける子供たち。

 子供たちを連れて来たお母さんたちは、突然、目の前で始まったアカデミックで本格的なバレエレッスンにうっとりと見入っていた。


 園香も思わぬ光景に目を奪われた。最初はヴァイオリニスト彩弥がピアノを弾く姿に驚いたのだが、気が付くと子供たちが何の違和感もなく楽しそうに踊っている。

 初めて生のピアノ曲でレッスンを受ける子供たちが曲に合わせて踊っている……


 よく見ると彩弥が子供たちの様子を見てテンポを調整しながら弾いている……

 そうだ彼女が子供たちを見ながら踊りに合わせて弾くから、子供たちが音から外れることがほとんどないのだ。


◇◇◇◇◇◇


 そのあとCD曲を使って『キャンディボンボン』の練習をする。この曲にはキャンディ役の子供たちと一緒にジゴーニュおばさんとして美織みおりも出演することになっていた。

 真理子とあやめが教室の鏡の前に立つ。心なしかゲストの青山青葉あおやまあおばバレエ団の全員の目線が真剣になったような気がした。

 青葉あおばとおるげん古都こと……そればかりか衣装副監督の来生由香きすぎゆかも出演者の子供たちに真剣な眼差しを向ける。

 指揮者の恵那えなと先程までピアノを弾いていた彩弥さやも、曲、振り付け、演出、出演者のレベル……何も見落とさないぞ……というような視線。

 恵那も彩弥も、美織の踊りはよく知っている何度も彼女の踊りの演奏をしたことがあった。目線は小さな子供たちに向けられているように感じた。

 若手ゲストののぞみしずか寿恵としえも真剣な目線で子供たちを見る。この子供たちと第一幕で一緒に演技をすることになるのだ。


 小さな子供たちだが覚えが早く振りは入っていた。振りを間違える子や途中で分からなくなって、おろおろするような子はまったくいない。そればかりか振り付けを踊っているというレベルを通り越し、この時期に既に自分の踊りとしてを楽しんでいるといういきにきている。


 しかし、それにしても振りが入るのが早い気がした。この教室で一番小さな子供たちばかりを集めた作品だ。今回の全幕を通して最年少のメンバーで踊る曲になる。

 しかも、この曲は第二幕の曲の中でも、そこそこ長い曲の部類に入る。

 全員がフルで踊りを踊るのではなく、曲の中に演技の場面もあるので覚えやすいのだろうか……とも思った。


 園香が、それとなく見ていると、随所に美織が演技中、子供たちと遊ぶような所作しょさの中で上手に作品全体の構成や子供たちの並びをコントロールしていく。


 そうだジゴーニュおばさん役の美織が小さな子供たちと遊ぶような演技をしながら、見ている者が気が付かないほど上手に子供たちをフォローし誘導している。


 まっすぐ並ぶ。全員で大きな円を作るように並ぶ。どの並びも、この教室最年少の小さな子供たちが、隣の子と隣の子の距離を全員が等間隔で並ぶ……直線に並んでも、円に並んでも……

 長い期間をかけて練習した曲ではない。美織が来て、まだ一ヵ月……しかも毎日何時間も特訓しているわけではない。

 いつも稽古に付き添っている真理子とあやめ以外、園香だけでなく花村バレエのスタッフも目の前に展開されるあり得ない光景に言葉を失った。


 見学席で見ているお母さんたちは自分たちの子供が元気にかわいらしく踊る姿を見て、こんなにしっかり踊れるようになったのか……と美織の巧みで繊細な技術に気が付いてない様子だ。


 鏡の前で見ていた古都ことは終始微笑みながら踊りを見ていた。その視線は子供たちではなく美織の技術と表現に向けられていた。

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