恋敵
紗枝の優しさに触れたためか。単純な気分の問題だったからか、僕の体調は翌日にはすっかり元通りになっていた。
紗枝への謝罪の一件は有耶無耶になったものの、さりとて一度謝罪をしたことで少しだけ気持ちは晴れたような気がした。ただ今は、元々抱えていた罪悪感よりも、割り切れない複雑な感情ばかりが胸の中にしこりのように残った感覚だった。
今度、紗枝と一緒にアイスを買いに行く約束を昨日取り付けた。
思い出したくない記憶と化していたため忘れていたが、思えば僕達は高校二年になって紗枝に恋人が出来るまで、登下校も一緒にしていたし、夕飯をどちらかの家で頂く機会も少なくなかった。
恵まれた環境だったんだな、と、紗枝と絶縁し八年もの歳月を過ごし、僕はようやく知ることが出来た。
そうやって、過ぎた結果に色々と知り、後悔する度、僕は自分が本当に心から、嫌いになりそうだった。
「おはよ」
家を出ると、紗枝がいた。
制服姿の紗枝は、僕が知る最後の紗枝。懐かしさが胸を襲った。
「もう熱は大丈夫なの?」
「うん」
「季節の変わり目なんだから、体調管理はしっかりしないと駄目でしょ」
「……うん。ごめん」
前までは、この小姑みたいな突っかかりが鬱陶しかった。
でも今は、彼女が自分なんかのことを気にしてくれているだけで、嬉しかった。
「まだ体調、万全じゃないみたいだね」
「……え?」
「いやに素直だから……」
それは、後々紗枝と過ごすこの時間がかけがえのないものと知る機会があったからだ。
言葉にすることが出来ないそんな回答を胸に秘めつつ、僕は微妙な顔をしていた。
その時だった。
紗枝の手が、再び僕の額を包んだのは。
……前までなら。
高校よりももっと前までなら、こんな機会はごまんとあった。なのに、頬が紅くなった気がした。もしかしたら、本当にまだ体調が万全ではないのかもしれない。そう考えて、思考を誤魔化した。
「熱はないみたい」
「そろそろ学校に行こう。遅刻してしまう」
「そうだね」
紗枝が微笑んだ。
「体調悪くなったら、ちゃんと言いなよ?」
……紗枝は、本当に、優しい人だ。
『あんたの顔なんて、もう二度と見たくないっ』
そんな彼女にあんな顔をさせてしまったことが。
彼女の愛した人を中傷してしまったことが。
脳裏を、過った。
それから僕達は、高校への通学路を歩いた。こんなに女々しい性格をしていたばかりに、高校までの道程はしっかりと記憶していたし、玄関を過ぎた先、下駄箱がどこにあるのかもうっすらと覚えていることが出来た。
スムーズに登校を終えて、僕達は教室に辿り着いた。
「おはようっ」
快活な紗枝の声が教室に飛んだ。
クラスメイトは次々と、紗枝に笑顔で返事を返していく。
その陰に隠れながら、僕は自席へと向かった。
確か、高校二年。あの事件が明るみになるまでは、僕にもそれなりに友達はいた。それでもこうして日陰者な姿を大衆に晒したのは、すっかりと僕にも負け犬根性が染みついた結果らしい。
「おはよう、修也」
自席に座り声をかけられ、僕は肩を揺らした。
ゆっくりと振り返って、僕は息を飲んだ。
「……おはよう、板野君」
僕の後ろの席に座る男の子。彼はまさしく、来年紗枝の恋人となり、そうして僕の中傷を受けることになった……板野辰雄君だった。
記憶が蘇っていく。
忘れたくて鍵を掛けていた記憶が、蘇っていく。
そうだった。
僕と紗枝と……そうして板野君は、高校一年時、同じクラスのクラスメイトだった。
そして板野君は、二年時にクラス替えにより別々のクラスに分かれるまで、僕の友達だった。
忘れていた罪悪感が、蘇っていく気がした。
胸が苦しくて、今にも今朝食べたものを吐き出したい気分だった。
「お前さ」
「ん?」
「昨日のテレビ見た?」
快活な笑顔で微笑む板野君。
そんな彼を見て、紗枝との絶縁後の彼の顔を思い出しそうになった。思い出しそうなところで思い出さないように取り計らったのは、いつの間にか身に付いた記憶に対する防衛本能によるものだった。
薄ら笑いをしながら、朝のショートホームルームが迎えられるまで、僕達は会話に励んだ。
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