傷心

 朝だというのに、厚い雲に覆われた寒空の日だった。今の自分の気分も相まって、非常に気分の悪い中での帰宅道となった。

 紗枝に会うまではまるで気にならなかったのに、今更、裸足、防寒着を羽織ってない状態が祟りだしていた。くしゃみをしながら家に着く頃には、すっかりとガタガタと歯を震わせた状態だった。


「あんた、顔真っ青じゃない」


 帰宅早々、最近ではめっきり会う機会の減った母に、心配された。

 久しぶりの家族の温かみに触れつつ、僕は玄関で倒れこんだ。寒さと、そして傷心の気持ちで、体調が一気に崩れてしまったのだ。


 高校を卒業する間近から、精神面が体調に影響される機会が増えた気がする。発端は自業自得でしかないのだが、余裕のなくなった時、僕はいつも思った。

 誰か助けてくれ、と。


 でも、救いの手を差し伸べてもらえないような状況を作ったのは間違いなく自分自身。

 だから僕は、声を上げることも出来ずに、いつもただ恐怖に震えることしか出来なかった。


 でも、もうそれではいけないのだ。


 僕は、そう決意したはずなのだ。

 あの時の謝罪を果たして、そうして彼女の心の傷を解消してあげるべきなのだ、と。

 そう、決意したはずなのだ。


 その決意があったから、今、こうしてこの時に戻ってきた。


 ……本当に、戻ってきたのだろうか?

 直前に覚えている記憶は、車に轢かれたその時のものだった。痛みはなかった。ただ、宙を舞った光景だけは脳裏に焼き付いている。


 もしかしてこれは、走馬灯なのではないだろうか。


 そんな疑念が、頭を過った。


 そうかもしれない。

 疑念が、確信へと変わっていく。


「あ、起きた」


 額に温もりを感じて、僕は目を覚ました。眼前には、紗枝がいた。


 驚いた。

 一生、口を聞いてすらもらえないと思った相手が目の前にいて……驚いた。でも、体は動かなかった。それくらい、僕は衰弱していた。


「大丈夫?」


 心配そうな声。

 心配そうな顔。


 もう一度、額に温もりを感じた。

 それは、僕の体調を心配する紗枝の手だった。


 かつて、何度も触れ合った手の温もり。

 とても夢だとは思えない、本物のような温もりだった。


 ……これが夢かもという疑念が、徐々に薄まっていく。

 それは紗枝の温もりを感じたためであり、そうあって欲しいという、願望だった。


「ごめん」


 僕はもう一度謝罪をした。

 許してくれることはない。さっきの光景を思い出しながら、余計にそう思いながら、だけど僕は、もう一度そう謝罪をした。


 紗枝が先に進むためには、それが絶対に必要なことだった。


 涙を堪えるのに必死だった。

 怖かった。何を言われるか、それを考えるだけで、怖くて怖くてたまらなかった。


「わかったわかった。もういいから」


「……え?」


「もういいよ。気にしない。気にしてない。だから、早く元気になって」


 呆れたように紗枝が言った。

 僕は、ただ呆けていた。


 こんな……。こんな簡単に許されるだなんて、思っていなかった。こんな簡単に解放されるだなんて、思っていなかった。


「まったく。あたしのアイスを勝手に食べただけでそんなに思い詰めるだなんて、あんたらしくもない」


「……あ」


 アイス?

 何を言っている?


 紗枝は一体、何を言っているのだ?


 困惑する僕は、まもなく自室にかかっていたカレンダーに気付いた。


 日付は、九年前の十二月。

 紗枝と板野君の交際が発覚し……僕が彼の中傷を始めたのは、八年前。


 紗枝達の交際よりも前に、タイムリープしたのか。


 動悸が早くなった気がした。

 様々な感情が渦巻いていた。


 でもそれは、決してとても褒められるようなものではなかった。


 九年前。

 高校一年生。

 紗枝と板野君が、交際をする前。


 ……もしかして、僕はもう、紗枝達に贖罪の気持ちを抱く必要なんてないのではないか。

 もしかして、僕はもう、紗枝達に謝罪しなくていいのではないか。


 もしかして、僕はまた、紗枝と……。


 僕は、目を瞑った。


「ごめん。本当、ごめん」


「風邪にかかって弱気になってるのね」


 違う、そうじゃない。


「まあ、そう言う時もあるわよ。下にいるから、何かあったら電話して」


 優しい紗枝の言葉が、胸に刺さる。


「今日はおばさん、あたしの分の夕飯も作ってくれるって。おばさんの料理、あんたも知っていると思うけどウチの親より美味しいから嬉しい。……だから、夕飯の後、また面倒見にきてあげるから」


 看病してもらう資格、僕なんかにはないというのに。


「アイスは……今度、一緒に買いに行こ。じゃっ、寝ててね」


 紗枝が部屋を去っていく。

 久しぶりに会った紗枝は、僕のした愚かな過ちなど知る由もない。

 もしかしたら今この時間軸であれば、僕は紗枝と再び関係を築いていけるのかもしれない。


 一瞬でもそう思った自分が、酷く哀れだと思った。


 あの時、紗枝を傷つけたこと。

 あの時、紗枝を泣かせたこと。


 あの時、紗枝に謝罪も出来ずに死んだこと。


「……僕には君と結ばれる資格なんかない」


 例え時が戻ろうが。

 あの時僕が犯した罪は、僕の心の中に刻まれている。


 これからまた彼女の傍で生活をして、また彼女を傷つけない、と僕には言い切れる自信がない。


 だから、僕は紗枝と……なるべく関わらない方が良いのだろう。


 ただ……謝罪する機会も奪われ、タイムリープをし、一体神は、どうして僕をこの時間に送ったのだろうか?

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