謝罪

 リビングから僕を呼ぶ母に返事もせず、僕は実家の自室にある姿見で自分の姿を見ていた。

 口をぽかんと開けた間抜け面で、僕はくたびれた寝間着を羽織って立ち竦んでいた。


 さっきまで髪の毛を切りに行こうと思ったのに、短めに整えられた髪。

 そして、前に比べてハリがある肌。


 今からは考えられない生気の宿った顔は、かつての高校生時代を彷彿とさせた。

 いやまさしく、今の僕の姿は……高校生時代のそれだった。


 タイムリープでもしてしまったのか。

 人智を超えた超常現象を味わって、意外にも頭の中は落ち着いていた。直前、血まみれになり指一本動かせない状態に陥ったのに、目を覚ましたらこんな姿になっていたのに。


 自分の身に何があったのか、意外にも冷静に自己分析をすることが出来ていた。


 ただ、疑問は尽きなかった。

 あの時、僕は死んだはず。車に轢かれ、死んだはずだった。


 なのにどうして、僕は今、タイムリープしてまで生にしがみついているのか。


 まもなく、僕は思い出す。


「紗枝……」


 あの時、恋した人を中傷され傷つけた紗枝のことを。

 あの時、赦してくれた紗枝に贖罪をしようと家を飛び出したことを。


 気付けば僕は、寝間着のまま家を飛び出していた。


「あんた、どこ行くのっ」


 制止する母の声も聞かず、靴も履かずに家を飛び出していた。


 僕は決めたのだ。


 結婚していく彼女に。

 愛した人と将来を進む彼女に。


 せめて最期に、謝罪の言葉を伝えたい、と。


 彼女はあの時の苦しみから区切りが付けられるように、謝罪をしようと思ったのだ。


 紗枝の家までの家路は、かつて散々通ったその道は、少しだけ懐かしく、少しだけ涙腺をくすぐった。

 アスファルトを裸足で駆けているというのに、痛みはまるでなかった。


 そんな痛みを感じないと錯覚するくらい、気持ちが高ぶっていることはまもなく気が付いた。


 僕は、神に感謝の言葉を頭の中で送っていた。

 ありがとう。おかげで僕は、死に際果たせなかったすべきことを、今、果たすことが出来る。


「行ってきます」


 その声を聞いた時。

 その姿を捉えた時。


 その、微笑みを見つけた時。


 僕の涙腺は、綻びそうになった。

 震える口元を抑えて、走ったせいか、はたまた昂った気持ちのせいか、動揺する気持ちを抑えて。


 僕は、紗枝と再会を果たした。


 白い息が、紗枝と僕との間に立ち上った。


 紗枝が、こちらに気付いた。

 訝し気にこちらを見た紗枝が、僕の方へと歩いてきた。


「ごめん」


 掠れる声で、僕は言った。

 囁くような小さな声で。

 消えそうなか細い声で。


「ごめん。ごめん……」


 恋人を中傷したことへの謝罪を。

 傷つけておいて何もしてこなかったことへの謝罪を。


 目の前から逃げたことへの謝罪を。


 必死に、僕は伝えた。


 呆れたような顔の紗枝は、まもなく僕の隣を通り過ぎた。


 心臓が、鷲掴みにされた気分だった。

 ショックからスローモーションになった視界で、僕は紗枝を追った。


「いや、許すわけないでしょ」


 僕の隣を横切った紗枝が、舌を出しながらそう返した。


「あっかんべーっ」


 そして、駆け足で僕の元から去っていった。


 ……簡単に許してもらえるだなんて、思っていなかった。

 わかっていた。

 わかっていたじゃないか。


 それでも、謝罪して許してもらわなければならない。


 それが……僕が、あの時犯した罪の贖罪なんだから。


 今すぐ追って、紗枝にもう一度謝罪をしなければならないはずなんだ。


 でも、足は動かなかった。

 ショックで、足は動かなかった。

 今更、冷たいアスファルトの感触が裸足の足に伝わりだした。

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