第二話

 もっもっもっ、と音が聞こえてきそうなほどにごはんを頬張る女の子を前に俺はすっかり冷めたコーヒーを飲んでいた。


 今年はうさぎ年。

 まるでチモシーを頬張るうさぎさんのようなほっぺをした彼女に向けて俺は訊ねる。


「美味い?」

「めひゃめひゃほほひいれふ」

「飲み込んでから喋ってよ……」


 彼女は佐倉さくらというらしい。

 聞けばまさかの俺と同じ大学に通う一年生。

 一気に彼女を身近に感じ、少し警戒のレベルが下がったことは事実だ。

 しかし俺の知り合いに佐倉という人物はいないし、いたことも無い。


「で、なんでこんなことに?」


 訊ねる俺をよそにごくんと幸せそうにごはんを飲み込んだ彼女は、続けて小さな口で餃子を頬張った。市販の冷凍のものをチンしただけなのにこの表情。メーカーはCMに出すべきだ。


「ほほすとなはふなるのへ……」

「だから飲み込んでから喋ってって言ってるのに……」


 人の話全く聞かねえなこの子。

 

「こ、この餃子、絶品ですね」

「冷凍のやつだけどね」

「お米もこの粒立ち、かなりお高い」

「スーパーで一番安いやつ」

「この粗茶、有名な産地の」

「粗茶の意味知ってる?」

「このお皿の模様はまさか……」

「絶対話逸らそうとしてるよな?」


 もぐもぐしたまま彼女はそっぽを向く。

 綺麗な鼻筋の通ったその横顔も、やはり見覚えはない。自慢ではないが、人の顔と名前は一度見たら忘れない方だと自負している。

 

「先輩はどこの学部なんですか?」

「露骨に逸らすなほんと。経済学部だよ」


 答えると、彼女はこくこくと二度頷いてからまた餃子へと戻る。いつの間にか先輩呼びである。まあ、間違ってはいないのだけれど。


「佐倉さんは?」

「文学部です」

「へえ。賢いんだな」

「えへへ……」


 照れ臭そうに笑う佐倉。

 なんだよこの会話。どこに向かってるんだ。


「で、文学部の十八歳の佐倉さん。なにがあったら見ず知らずの男の部屋のインターホン押して、晩ごはん作りすぎてないか確認することになるわけ?」

「……お金が、無くてですね」

「無いったって。一人暮らしなの? 親は?」

「一人暮らしです。親とは、ちょっと喧嘩中で」

「バイトとかは?」

「始めましたが、カツカツです」

「なるほど。で、お腹が空きすぎたあまり、たまたま俺の部屋のインターホンを押したと」

「…………」

「おいそっぽ向くな。やましいことがあるんだな? どこだ。どこが嘘なんだ」


 気まずそうな顔でだらだらと汗を流しながらごはんを頬張る佐倉に詰め寄るが、彼女も頑として箸を止めない。


「まあ、プライベートな部分だから何も聞かないでいておいてやる」

「先輩……!」

「って言いたいところだけどな」

「せ、先輩……?」

一宿いっしゅく一飯いっぱんの恩、返してもらおうか」


 我ながら悪い顔をしている気がする。

 俺は聖人では無いのだ。タダ飯を食わせてやったというのに何も話さないで良いよなんて、そうは問屋が卸さない。


「今食べた一品につき一つ、質問に答えてもらおうか」

「あ、ありがとうございますっ!」


 なぜか佐倉は立ち上がり頭を下げた。 

 そして続ける。


「晩ごはんだけでなく、泊めてまでもらえるなんて。なんてお礼を言っていいか分かりません!」

「ま、待て。誰が泊めてやるなんて言った!」

「でも先輩、宿一飯の恩って言いました」

「言ったわ」


 さっきまで粗茶とか言ってたやつが急に文学部発揮するな。俺は咳払いをして。

 

「訂正。一飯の恩だ。覚悟してもらおうか」

「うう……」


 佐倉はしょんぼりと肩を落としたかと思うと、唐突に着ていた黒のパーカーを脱ぎ捨てた。変な丸っこいうさぎがデザインされた白のTシャツが現れる。今年は卯年だが、これは正直言ってかなりダサい。


「白ごはんの分……えと、一品につき一枚でしたっけ……」


 続けて佐倉が恥じらうようにTシャツの裾に両手を当てて「餃子の分……」と漏らし、白いお腹がちらと目に映ったところで俺は叫ぶ。

 

「止まれ! だ、誰が服脱げって言った!」

「でも先輩、一品につき一つ俺の期待に応えろって言いましたよ」

「今度は言ってねえぞ! 質問に答えろだから! どんな聞き間違いだよわざとやってるだろ!」


 そこでインターホンが鳴った。

 普段はネットで買ったものが届いた時にしか鳴らないインターホン。

 完全に忘れていた。もう一つ鳴る場面があったことを。俺はおそるおそるモニターを見る。


 まるで見えているかのように、どアップでこちらを見据える顔。妹の乃々佳ののかだ。その眼光はあまりにも鋭い。


 俺は振り返る。はだけたTシャツ姿の佐倉と、脱ぎ捨てられた黒のパーカー。これはよくない。


「と、とりあえず! 早くそれを……違う! 着ろ! 脱ぐな! 先輩ってやっぱり、みたいな目でこっちを見るな!」


 もう一度鳴り響くインターホン。

 我が妹ながらせっかちなやつである。温厚で柔和な俺とはまさに真逆。一体誰に似たんだか。


 まあいい。適当に返事をして、ちょっと部屋を片付けるとか言って時間を稼ごう。その間に佐倉の痕跡を一旦消してしまえば乗り切れるだろう。まったく、鍵をかけておいてよか……。


 思考が過去へと走り出す。巻き戻るように佐倉が家に入った時の光景が浮かぶ。

 そう、俺はドアを閉めて。そして、鍵を。

 かけていない。


 がちゃん。

 短い廊下へと繋がる扉の向こうで音がした。

 続けて、ドンドンドンと床を叩くような足音。乃々佳に言い訳は通用しない。まずは謝罪から事情の説明に入るのが最も生存率の高い流れだろう。


 俺は瞬時に両手を床につき、土下座の体勢へと移行した。

 扉が勢いよく開かれる。


「乃々佳! うるさくして悪かった! 彼女は同じ大学の文学部の十八歳の佐倉さん。家庭内トラブルで路頭に迷った彼女は、空腹のあまり俺の家のインターホンを押し――」

「アニメ冒頭の下手くそなナレーションか。ちょっとお兄ちゃんは黙ってて」


 いつものように妹から冷たい言葉が返ってきたかと思うと。


綾乃あやの? なんであなたがここに居るの?」


 ドスの効いた声に俺は顔をあげる。

 にこやかな笑み。その奥に隠されたどす黒い感情を隠そうともしない乃々佳。その視線が向けられているのは俺ではなく。


「乃々佳ちゃんには悪いけど、先輩は私がもらうから」


 視線の先の佐倉は、少しだけ震えた声でそう言い返した。ちょっと待て。何言ってんだこいつら。そもそも知り合いなのか? 


 混乱する俺をよそに、彼女らは口を開く。


「一体どんな手を使って上がり込んだのよ。この大学デビュー」

「ブラコンの乃々佳ちゃんには言われたくない。大学生にもなってお兄さんの隣の部屋に住んでるとか何なのかな」

「質問に答えなさいよ。それになにその格好。大してありもしない胸でお兄ちゃんを誘惑でもしてるつもり? 残念だけど、お兄ちゃんは巨乳がタイプだから」

「唐突に兄の性癖バラすのやめて? いや違うけど。別に巨乳好きじゃないけど」

「だ、だったら乃々佳ちゃんも対象外だね」


 二人は控えめな胸元を隠すようにして睨み合う。俺はいないものにされているらしい。

 佐倉は続ける。


「そもそも私は先輩と付き合えるけど、乃々佳ちゃんはお兄さんとは付き合えない時点で勝負はついてるんだよ」


 ぎりりと乃々佳が歯を噛み締めたのが分かった。そうしてまた睨み合う二人。

 一体なんの戦いなんだこれは。何の話をしているんだこいつらは。


「乃々佳? 佐倉さん? 二人は知り合いなのか? てか、何の話を……」

「……待ってお兄ちゃん。この子のこと、何も覚えてないの?」


 そう言って目の前の彼女を指差す乃々佳。

 俺は佐倉を見る。首を傾げた俺に、彼女は慌ててパーカーのポケットをまさぐったかと思うと黒ぶちのメガネを取り出した。


 黒ぶちメガネ。

 記憶のどこかで、ちりちりと何かが散った。


「先輩。これで……どうですか」


 おそるおそるメガネをかける佐倉。

 綾乃という名前。遠い記憶の中で、乃々佳がその名を呼ぶ声が聞こえた気がした。


「……まさか。小学校の時の、乃々佳の友達だったあの綾乃?」

「は、はい!」


 確かに記憶にその名前はあった。

 しかし、苗字が違ったような……。

 それはまあいい。


「それで、だから、なんなんだ?」


 言うと、佐倉は絶望したように床に崩れ落ち、対照的に乃々佳は勝ち誇ったように高らかに笑った。


「見なさいこの大学デビューの芋女! あなたのことなんてお兄ちゃんの中ではこの程度なんだから!」

「だ、大学デビューでも乃々佳ちゃんより私の方がモテるんだけど! 先輩だってまんまと私を家にあげてるんだけど!」

「……お兄ちゃん? 説明してもらえる?」


 下から睨みつけるような妹の目。

 くそ。ここで矛先が俺に!

 

「せ、説明も何もさっき話した通りだ。お腹を空かせてたみたいだったから仕方なく」

「そのお礼として先輩は私に服を脱ぐように要求して」

「そう。ち、違う! いらん茶々入れんな!」

「へえ。服をね。ふうん」


 床に置かれた黒のパーカーに目をやる乃々佳。まずい。


「これで乃々佳ちゃんも分かったんじゃないかな。先輩にとって妹はあくまで家族。私は一人の女の子として……」


 会話を遮るようにインターホンが鳴る。

 俺たち三人は無言のまま、視線を送り合う。

 嫌な予感がした。


 モニターを見る。そこには。

 俺の父の顔が映し出されていた。

 今一番見たくない顔だった。


 俺はゆっくりと通話ボタンを押した。


「……父さん? え、なにこんな時間に」

遼馬りょうま。今日でお前も二十歳だな。おめでとう」


 その言葉に部屋の時計を見る。短針はちょうど真上を少し過ぎた場所を指していた。いつの間にかこんな時間になっていたのか。


 実家からここまで車で一時間ちょっと。

 来れないほどの距離ではないが、こんな時間にわざわざ来るほどの距離でもないはずだ。


「あ、ありがとう」

「そんなお前に、話しておかなければいけないことがあるんだ」


 真剣な父の表情。

 モニター越しだとふざけているようにしか見えない。しかし待て。二十歳。話しておかなければいけないこと。あとひとつで何かが揃ってしまいそうな、そんな感覚があった。


「――妹の、乃々佳のことだ」


 

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