今日も俺の家のインターホンが鳴る
アジのフライ
第一話
土曜、夜22時を少し過ぎた頃。
普段はネットで買ったものが届いた時にしか鳴らないインターホンが、その音を響かせた。
モニター越しに映るのは見覚えの無い女性らしき姿。変な勧誘か何かだろうかと疑いつつも、通話ボタンを押す。
「はい?」
『……あ。こんばんは。夜分遅くにすみません』
緊張したような、少し上ずった女の声が聞こえた。知らない声だ。おそるおそる返答してみる。
「どうかされましたか?」
モニター越しに肩がびくりと揺れるのが見えた。そもそもインターホンに慣れていないのか、それともわざとなのかは分からないが、モニターに顔は映っておらずその表情までは伺えない。
『つかぬことをお聞きするのですが』
しばらくの間をおいて、その言葉は飛んできた。
『――あの。晩ごはん、作りすぎちゃってませんか?』
「…………はい?」
聞き間違い、だろうか。
俺はもう一度聞き返すことにする。
「えっと。晩ごはん、作りすぎちゃったんですかね?」
『あ、いや、違います……。その、晩ごはん、作りすぎちゃってないかなあ、って』
「作りすぎちゃったから、お裾分けに?」
『い、いえ。作りすぎちゃってたらお裾分けしてもらえないかなと思いまして』
なるほど。
何を言っているんだこいつは。
晩ごはん作りすぎちゃって、良かったらいかがですか? あり得るとするならこうだろう。それならまだ分かる。俺もそれを想定していたからこそ今混乱しているのだ。
このモニター越しの見ず知らずの女は。
晩ごはんを作りすぎちゃったどころか、あろうことか晩ごはんを作りすぎちゃっていないかを俺に確認しているのだ。一体どうやったらそんなことになるというのか。つかぬことが過ぎるだろ。
「い、いや。すみませんが作りすぎちゃっては無いですね」
『……そう、ですよね。や、夜分遅くに変なこと聞いてすみませんでした。おやすみなさい』
「あ、はい。おやすみなさい……」
『ぐきゅるるるる』
ボタンを押して通話を切ろうとした瞬間。
どうやって出したんだと問いたくなるような彼女の腹の音が響いた。
見ず知らずの女だ。
しかもこんな時間に、普通に考えれば非常識なことを聞いてくるような怪しいやつだ。見て見ぬふりをするべきだろう。
けれど。
晩ごはん、作りすぎちゃってませんか。
そんな間抜けな言葉と、ひどい腹の音を聞いて。俺は彼女に少し興味が――
湧くわけなかった。
俺はノータイムでモニターのボタンを押して通話を切った。
こんな時間に、一人暮らしの大学生の男の家のインターホンを押して晩ごはん作りすぎちゃっていないか確認するやつにまともなやつがいるはずがない。きっと
ため息をひとつ吐いて、ソファに腰掛ける。
……一体、なんだったのだろうか。もしかすると新手の訪問販売か? 怖い怖い。
テレビに向き直り、テーブルの上のぬるくなってしまったコーヒーを
インターホンが再度鳴った。
俺はチカチカと光るインターホンを睨む。
……無視だ無視。
そもそもだ。仮に本当に晩ごはんが食べたかったとして。それならこんな貧乏学生の部屋を訪ねて来るんじゃない。無視していれば諦めて、他の部屋にでもお願いしに行くだろう。
三度目の音が鳴る。無視。
四度目のインターホンが鳴ったところで、俺はソファから立ち上がり通話ボタンを押した。
「いい加減にしろよ一体何時だと」
『ぐぎゅるるるる』
腹の音で返答してきやがった。
一体何者なんだこの女は。只者ではないことだけは分かる。褒めてはいない。
「すみません、困るんですけど」
『な、何度も本当にすみません。あの、なんとか晩ごはん作りすぎちゃってもらえないでしょうか?』
晩ごはん作りすぎちゃってもらえないでしょうかってなんだよ。一周回って、なんかいいなって思ってしまいそうなほどに意味不明なフレーズだ。
「いやいや。うちなんかろくなもの無いんで。アパートの他の部屋当たってみてくださいよ」
『それは他の方の迷惑になるので……』
俺への気遣いはどうした。
「もしかして、訪問販売か何かですか? 僕お金無いんですよ」
『私も無いです……』
「…………」
だろうね。
晩ごはん作りすぎちゃってないか確認する人がめちゃくちゃお金持ってたら腹立つからね。
『あ、あの。……なにが目的ですか?』
「いや逆だろ。目的もなにもないですって」
『……身体、ですか?』
恥ずかしそうな声と身を捩る姿がモニター越しに見えて、いよいよ誰かに見られるとやばいと判断した俺は玄関へと向かう。
特に左隣の部屋だ。左隣の部屋のあいつにだけは見られるわけにはいかない。
スリッパを突っかけて鍵を開け、重たい音をさせるドアを開いた。
そこに立っていたのは、黒いオーバーサイズのプルオーバパーカーの女……いや、女の子だった。
短めの黒髪と白い肌が月明かりに照らされる。幼さの残る顔立ちの中で、印象的な大きな瞳がこちらを見上げていた。少し首を傾げた仕草がより幼さを際立たせる。
大学二年の俺よりは明らかに歳下。
下手すると高校生、いや、それよりも……?
「あ、ありがとうございますっ!」
女の子は俺に向けて即座に頭を下げた。
「いやなんのお礼!? まだなにも言って無いんだけど!」
「タダで晩ごはんまでいただいて……」
「勝手にいただける感じになってる? ちょ、な、なに勝手に上がり込んで」
「げ、玄関先で騒ぐと周りの方の迷惑になるので……」
「だから俺への配慮はァ!?」
まずい、ペースを持っていかれている。
さらにまずいのは彼女が明らかに未成年ということ。部屋に連れ込んで後から適当なことを言われれば、不利なのは俺の方だというのは目に見えている。
「いやいやほんと困りますって。あなたどう見ても未成年ですよね?」
念のため扉を一旦閉める。パーカーにローファーという珍しいスタイルだった彼女が靴を脱いだところで俺はそう訊ねた。
ぴたりと動きが止まったかと思うと、怪訝そうな顔がこちらへと向けられる。
「……本気で言ってますか?」
最初から本気である。
あなたの方が正気ですかと問いたい。
「本気ですけど」
言い返すと、彼女は小さく息を吐いて。
「大丈夫です。私、十八歳なので」
なにが大丈夫なんだ。未成年だろ、というか。
「十八歳!? まさか、下手したら中学生かと」
「し、失礼ですね! あなたとひとつしか変わらないじゃないですか」
「…………なんで俺の年齢を?」
「あ」
怪しむ俺の言葉に、彼女は口元にしまったと言わんばかりに小さく手を当てた。怪しい。怪しすぎるぞこの女。
しばらく無言の時間が続いたかと思うと。
「ぐきゅるるるる」
彼女の腹の音が静寂を切り裂いた。
「……こ、こらっ。ダメでしょ!」
まるでペットのチワワでも叱るかのように、彼女はお腹に手を当てて囁いた。真顔の俺。
みるみるうちに彼女の耳と頬が赤く染まる。
一体なにを見せられているんだ俺は。
「そんなにお腹、空いてるんですか」
……聞いて、しまった。
きっと俺は、聞くべきではなかったのだ。
こんな怪しい女、とっとと追い出すべきだった。
「…………ぺこぺこです」
俯いてお腹を両手でさすった彼女はまるで小動物のようで。いつか、どこかで見た猫のような姿を連想させた。
諦めてため息をつく。
びくりと震えた肩を見て、俺は言う。
「ごはん、食べたら出てってもらいますよ」
彼女の横を通り過ぎて、部屋へと戻る。
表情は見えなかったけれど、ぱああっと音が聞こえてきそうな返事が背後から返ってきた。
「は、はいっ」
どうしてか俺は、それを懐かしいと感じた。
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