ある男の残響(後)

 タウィーザは脱走後、仲間と合流したような様子はなかったという。

 あの男は、たった一人でヴィヴィアンを誘拐しようとしたのだ。無謀で愚かとしか言いようがなかった。

 しかし実際、それは成功していた。


 なぜそんなことが可能だったのか。悪運に恵まれたというだけではない。

 ヴィヴィアンは――あの男を許したのではないか。

 自分ではなくあの男の手を取ったのではないか。


 そう考えたとたん、ジュリアスは胸をかきむしりたくなるほどの不快感と吐き気がするほどの苛立ちを覚えた。


 そんなはずはない。

 ヴィヴィアンはずっとあの小島にいた。あの孤独な鳥かごの中に。不平不満のさえずりさえもらさず、翼を広げることさえ諦めてそこにいた。


 大義をなしたものの諦観。正義のために身を擲なげうったものの覚悟。

 否。


『正義なんかに、私は身を捧げたわけじゃないわ!』


 あの、叫び。ヴィヴィアンがはじめて見せた感情の乱れ。

 さほど驚きはしなかったのは、心のどこかで知っていたからだった。


 ――違う。

 はじめは、知っていたのだ。

 あの女は、この自分のために禁忌を犯したのだ。

 婚約者を守るために。ジュリアスという男を守るために。


 どんなに忠実な騎士も貴人も、そこまではしなかった。

 ヴィヴィアンだけがそうした。

 それは、ジュリアスの奥深く、光のあたらぬ暗いところまで揺らした。


 奉仕されることに慣れた王族の身でもなお、自分をひたむきに思う女がそこまでしてくれたということに、この上ない優越を覚えた。憐れみ愛おしむ気持ちさえ覚えた。

 だが、世界はそれを許さなかった。


(……仕方ないだろう)


 ジュリアスは誰にともなく吐き捨てる。

 自分はまもなく王となる身で、誰よりも高貴で、足枷となるようなものは一つでも潰しておかなくてはならない。なのにその妃に、邪神の力を宿した女などを据えられるはずがない。


『どうぞご賢察ください、殿下。あの方に無視できぬ手柄があったとしても、状況が状況でございます』

『殿下ほどの方の妃が、あのような異形の者であってはなりません――』

『陛下も、諸侯も、民さえもあの者との結婚は祝福できぬでしょう』


 はじめはやかましく呪いのようにさえ思えた周りの意見も、少し考えてみればその通りに思えた。自分一人が、ヴィヴィアンとの婚約に執着しても意味がない。

 ――ヴィヴィアンは大義のために、正義のために禁忌の力に手を染めた。

 そう思うことにした。そのほうが、割り切るのに容易だった。

 やがてそのもっともらしく理に適った考えが真実のように思われてきた。


(……そうだ。ヴィヴィアンは聖女だ。国に奉仕する身。だからこそ、私の制止も振り切ったのだ)


 これこそが事実なのだ。

 ゆえに――大義のために自ら禁忌に手を染めたヴィヴィアンは、日の当たる場所に立てなくなることも覚悟していただろう。

 むしろ大義がなされたのだから、本望ですらあるのではないか。

 自分の手を振り払い、闇に向かって走って行った女の姿が、やがてもっと遠く記憶の彼方へかすんでいった。


 それでもジュリアスは慈悲をかけ、ヴィヴィアンの命を守った。最低限の生活は保障した。人と関わることのない静かな世界だ。

 自分とだけ繋がり、自分の手中におさめていた世界。

 それはあまりに平穏で淡白で、ヴィヴィアンという女のことをジュリアスに忘れさせるには十分だった。


 自分の手中にあるものを奪おうとするものもなく、この手から放らぬ限りなくならないものをどうして気にしていられる。

 ――だが。


(なぜ……あんな男などに!)


 黒く熱い泥のような怒りが、体の中で渦を巻く。

 ――忘れかけていた女を奪われたところで、何になる。

 頭の隅に残った理性がそうささやく。

 利用価値があるのは確かだったが、いなくてもジュリアスの世界に支障はない。

 女としての魅力は、娶った妃たちに比べれば遥かに劣る。


 しかし、当然これからも自分のものであったはずのものを、突如奪われたということが、これほどまでに耐えがたい。

 ただの未練なのか。所有欲にすぎないのか。

 それがこんなにも自分を苦しめるのか。

 ヴィヴィアンの意思であの男と共に行ったのかもしれない――そう思うと、胸をかきむしりたくなるほどの苦痛だった。




 ジュリアスは荒れた。

 ろくに捜索の成果をあげない配下を怒鳴りつけ、苛立ちを他の女で紛らわせた。

 自分の周りにいる女と、かつてのヴィヴィアンをどうしようもなく重ね合わせる。


 ――この女たちの、一体何人が。

 かつてのヴィヴィアンと同じことができるか。

 禁忌に手を染めてまで、自分のために命を捧げてくれるだろうか。


(どこで……間違えた?)


 戻ってこい、とジュリアスはどこかにいる女に向かって叫ぶ。

 いないと思い知らされるほど魂が削れてゆくようだった。

 もはやあの女が自分の手中にないなどと、そんなことは耐えられない。

 どうやってヴィヴィアンを忘れていられたのか、もはやわからなかった。


(戻ってこい、ヴィヴィアン……!)


 いまこの心を苛むものが、捨てたはずの愛などというものであることなど、知りたくなかった。

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