ある男の残響(前)
「殿下……一度、お休みになられたほうが」
「うるさい!」
赤銅色の髪が美しい女は、びくりと体を震わせた。それから怯えたように後退し、深く頭を垂れて、差し出がましいことを申しました、と声を細くした。
ジュリアスはなんとか怒りを抑え、下がれ、とだけ短く言った。
女は顔を青ざめさせながら退室した。最近寵愛していた側室の、そんな表情ははじめて見たかもしれなかった。
ジュリアスは深々と溜息をつき、机の上に肘を置いて額に手を当てた。
頭痛がする。胸焼けしたような不快感があった。
(どこへ行った――)
その思いだけが、あの満月の日以来、ジュリアスを苛み続けていた。
《タハシュの民》の生き残りが脱走したという報せは三日前に入った。《タハシュの民》の生き残りとはいえ、タウィーザという男は若造で、しかも奴隷だった。指導者階級にも見えず、合流して決起するほどの仲間は残っていない。
奴隷が一人逃げたところで、何ができる。
否。ジュリアスはあの傲岸で無礼な奴隷を嫌悪すらしていた。手元から離れてむしろ清清したとさえ思っていた。
――贄には他の者をあてがえばいい。
追跡の者は出したが、何が何でも捕まえろとは命じなかった。
だから――追跡の者が、港から商船が一隻消えたという情報をもたらしたときも、どうやら奴隷は船で逃げたようだ、と考えただけだった。
惨めで無力な奴隷のわりに小賢しい逃走手段を取る、と。
すぐに夜が訪れ、見事な満月がのぼった。月明かりの射し込む寝室で、ジュリアスはふとかつての婚約者のことを思い出した。
自分の下で快楽にむせび泣く女の顔と、記憶の中の顔を比べる。
(――こんな顔をしなかった)
あの女。ヴィヴィアンは。
ジュリアスの過去の中で、ヴィヴィアンという女はいつも横顔を見せている。血に濡れた頬。愉悦とはほど遠い、険しい眼差し。痛々しいほどに張り詰め、それがゆえに触れがたくも思えた横顔。
前を向いている。――その先には、報われぬ未来と暗闇しかなかったというのに。
最後に笑顔を見たのはいつだっただろう。
あまり垢抜けない、田舎娘のような風情で、だがそれが穏やかな爽やかさをもち、快く感じられたようなことだけは覚えている。
満月の夜が明けたあと、ジュリアスが船で小島に向かったのは昼頃のことだった。
ヴィヴィアンが弱っているところを狙い、手を差し伸べる。――だが会話ができ、最低限の判断ができる程度には回復しておいてもらわなければならない。
だから、館の中にその姿が見えなかったとき、にわかには信じられなかった。
配下の者に館中を、さらに島中を探させた。
だが見つからなかった。
愕然とする。こんな状況は予想していなかった。
長く籠の中に閉じ込められていたはずの鳥が、突然消えた。そんな錯覚さえ抱いた。
否。そんなはずはない。
そのとき、ジュリアスはようやく気づいた。――あの奴隷は、船で逃げただけではなく。
(まさかあの男……!!)
思い至ったとたん、ジュリアスは全身が沸騰するような怒りに襲われた。
探せ、と配下に怒鳴りつけた。
あの不遜な男の顔を浮かべ、斬り殺してやりたいという思いに駆られた。そしてその男にみすみす誘拐されたかもしれないヴィヴィアンにも腹が立った。
奪われた。
その思いが、不快な火となって体を内側から焦がした。
捜索は続けている。
だがジュリアスには他に、宮廷という戦いの場もあり、大々的に捜索の手を出すことはできなかった。
刻一刻と時間が過ぎてゆき、焦りと苛立ちはますます募った。
ヴィヴィアンという駒を奪った男に対する憎悪は日々増してゆく。
それと同時に――ジュリアスは極めて不快な、ある一つの可能性に思い至った。
ヴィヴィアンには、邪神の力が残っている。その力をもってすれば、自分を誘拐しようとする男をはねのけることぐらい造作もなかったのではないか。
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