15-2

 冷たい黄金の月が空に浮かんでいる。

 その姿を隠すものはなく、夜の全ては、月明かりを引き立てるための舞台装置にすぎぬようだった。


 ヴィヴィアンは一人、館の空き室で椅子に座っていた。地下倉には、もうほとんどボトルが残っていない。

 今回、あのボトルの補充を受けられなかった。――それもおそらくジュリアスの意向だろう。


(大丈夫……何も変わらない。いつもと同じ……)


 満月に一人になるのは、これまでと変わらない。

 呼吸に意識を集中する。激しくなってゆく飢えから意識を逸らす。


 ――痛みは人を苛む。

 本能からくる恐怖や怯えが、意思を蝕み弱らせる。

 ジュリアスはたぶん、それを狙っているのだ。


 満月がもたらす苦痛や不安が、ヴィヴィアンの意思を覆すと思っている。

 この苦痛の循環から抜け出すには、永遠に停滞するようなこの世界から抜け出すにはジュリアスの言う通りにするしかないとでも言うように。


 ヴィヴィアンは膝の上で強く両拳を握った。その拳に目を落とすと、視界が揺れた。目眩がする。唾液が激しくこみあげてくる。


 ボトルの補給を受けられなかったせいで、いつもより更に飢えが酷かった。

 内臓がねじれるようだ。

 握った手が震えはじめる。


 体が思い出す――この耐えがたい飢えが癒された時を。

 タウィーザの熱い体。芳醇な血。

 体が冷たいのに、頭だけが煮立ったように熱い。


 ぐらりと体が傾いだ。

 物音をたて、ヴィヴィアンは椅子から転げ落ちる。床に倒れる。起き上がる力もなく、胎児のようにうずくまった。

 その音を聞くものも、駆け寄ってくるものもいない。


 息が震えた。

 倒れた椅子と体とともに、自分の中の何かまで大きく揺らいだ気がした。

 強く閉じた目から、生温かい雫が溢れる。


 気を失ってしまいたくても、ずきずきと刺すような頭痛が、臓腑をねじられるような感覚がそうさせてくれない。

 世界が揺れ、現実が遠のいては飢えに引き戻され、意識が混濁していく。


(……いつまで)


 いつまで、こんなことが続くのだろう。

 ヴィヴィアンは喉を震わせた。うずくまったまま嗚咽する。


 いっそ、このまま消えてしまいたかった。この苦痛ごと、この胸の虚ごと――。

 だって、こんなにも独りだ。


 床のかすかな振動を、体の接触面に感じた。

 自分以外に物音をたてるものはないはずなのに、扉が乱暴に開かれる音がした。


「ヴィヴィアン!」


 緊迫した叫びが、ヴィヴィアンの胸を貫いた。この場にいるはずのない声。それから荒い足音が近づいてくる。

 とたん、うずくまっていたヴィヴィアンは力強く抱き起こされた。


 ヴィヴィアンは重い瞼を持ち上げ、ぼやけた目で見上げた。

 青白い、雷のような目が見える。それから、甘い肌の香り――熱い体の香り。


「くそっ!」


 タウィーザは悪態をつき、引きちぎるように自分の襟を開いた。浮いた喉仏と鎖骨までが露わになる。


 ヴィヴィアンの喉は、意思とは関係なく鳴った。

 また涙が溢れ、弱く頭を振った。


「い、や……」

「何を言ってる! 早く飲め!」


 まるで抱き寄せられるような形で、首筋に口元を近づけられる。

 激しく唾液がこみあげ、軋む音をたてはじめた口を、ヴィヴィアンは泣きながら閉ざした。

 顔を背ける。震える両手で、男の胸を押し返そうとする。


 もういやだ、と思った。

 これ以上生きていて何になる。人の血で飢えを癒して。こんな、人の血に飢える体で。かつての婚約者にすら異形の力を利用されようとして。


「ヴィヴィアン!」

 

 タウィーザは叫び、だがヴィヴィアンがいやいやと頭を振って頑なに拒むと、舌打ちした。

 それから、自分の右腕に噛みついた。

 小さい傷痕から鮮やかな血が滲み出すと、とたん、目も眩むような芳香がヴィヴィアンを襲った。


 その小さな傷口が、ヴィヴィアンの口に押しつけられた。


「ん、ん……っ!」


 必死に閉ざしても、かすかな隙間からそれは流れ込んでくる。舌に触れたとたん、異形の本能が理性を決壊させようと勢いを増す。


 涙が一筋、頬を伝った。

 押しつけられるうち、ヴィヴィアンの唇がゆっくりと開いた。

 涙に濡れた杏色の瞳に、ぼやけた意思の光が映っている。


 赤い舌先がタウィーザの傷にあてがわれ、ゆっくりとなぞった。肉厚の花弁を思わせるものが、滲み出す赤を貪欲に舐める。


 タウィーザがかすかに体を震わせ、目元が何かを堪えるように歪む。

 赤い舌が蠢く小さな口の中で、軋む音をたてながら犬歯が伸びていく。


 タウィーザは再びヴィヴィアンを抱き寄せた。

 口の前に差し出された熱い首筋に、ヴィヴィアンはもう抗わなかった。


 牙を突き立てられ、《血塗れの聖女》の腕に体を押さえつけられても、贄の青年は聖女の体を強く抱き続けた。

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