11-2

(な……)


 何が、起こっているのか。

 とっさにしがみつく、というには腰の後ろに回った腕も、背に回って肩をつかむ手も強すぎる。

 ――熱すぎる。

 やがて、高い鼻が耳の上の髪をかきわけるようにふれ、耳朶のすぐ上に吐息がかかった。


「……諦めろ。王子は、もうあんたの味方なんかじゃない」


 少し低く、濡れたようなささやき。ヴィヴィアンはびくりと体を震わせる。

 ――ジュリアス。

 顔だけ動かし、青白い目と合わせようとする。


「あ、なたは……何か、知っているの。ジュリアスに、何が……」

「何もない。王子はあんたをとっくに諦めて、なのにその王子にいまだ心を残してるあんたが滑稽なだけだ」


 嘲りを帯びた言葉が、ヴィヴィアンの胸を刺した。

 ――ジュリアスが、諦めた。


(そんなの……)


 わかっている。

 時が経って、婚約が白紙になったことも互いの関係を切らなければならなかったことも仕方ないと受けいれられるようになっている。自分にだってあのとき抱いていたような熱情もない。


 けれど、だからといって、まったく繋がりが途絶えたわけではない。

 婚約が破棄されたときも――ジュリアスは罪悪感に苛まれ、自分に謝ったのだ。そしてこの島に移すことで助けてくれ、いまもなお援助してくれているのも彼だった。


 ずきずきとした鈍い痛みが、体の表面を覆っていた呪縛を解く。

 ヴィヴィアンは両手で青年の腕をつかみ、べりっと引き剥がした。


「……戯れるだけの元気があるなら、さっさと食事をすませることね」


 青年の体を軽く寝台に向けて突き、テーブルに置いてあった器を寝台の横のサイドテーブルに移す。

 それから素早く踵を返し、タウィーザの目を避けるように部屋を出た。


 廊下に出たあと、唇に手の甲を押し当てていた。顔が歪む。息を殺す。

 なぜ自分の心がこれほど乱れるのかわからなかった。


(いったい、タウィーザはなぜこんなことを……!)


 彼の望みは復讐なのか。だがそれにしてはあまりに近しく、欺くにしては白々しさが足りない。

 声の冷たさとは対照的にタウィーザの体は熱く、ヴィヴィアンの体に火を押し当てるかのようだった。




 月は満ち、欠け、また満ち始める。新月ののち、徐々に夜をこじあけていくように月の銀光が広がってゆく。

 それでも満月にはいまだ時間があるころ――《血塗れの聖女》が住まう小島に、一艘いっそうの船が入った。

 ヴィヴィアンの視力は、海の向こうからやってくるその船を早くに捉えた。

 そしてそれが見慣れた輸送船でないことに気づくと、突如不吉な胸騒ぎに襲われた。


 館を出て、足早に浜辺へ向かう。

 やがて海辺へたどりつくと、船の異様さがあらわになった。いつもの輸送船より遥かに上等なつくりだった。


(これは……?)


 ヴィヴィアンは愕然とする。

 やがて、その船から桟橋に降り立った人間がいた。はじめは近衛騎士の制服を着た男たちで、そのあとに悠然と降り立った男がいる。


 艶やかで明るい栗毛。磨かれた鋼のような灰色の瞳。すらりとした体を、豪奢な衣装が包んでいる。

 灰色の瞳が周囲を見回し、ヴィヴィアンに気づいた。目が大きく見開かれる。

 ヴィヴィアンもまた、同じ表情をしていた。


「――ジュリアス」


 たちまち乱れ始めた鼓動の合間に、そう呼んだ。

 灰色の瞳の王子――ジュリアスはかすかに目を細めてヴィヴィアンを見ると、品の良い微笑を浮かべた。


「久しいな、ヴィヴィアン」


 ヴィヴィアンはジュリアスから目を離せなかった。

 ――なぜ。

 そう思うのに、鼓動が乱れた。


「……話したいことがある」


 ジュリアスはそう言って、館に招かれることを暗に望んでいるようだった。

 ヴィヴィアンはジュリアスと勤勉な近衛騎士たちとともに館に戻った。

 騎士たちはジュリアスの護衛だったが、ヴィヴィアンに鋭い眼差しを向けていた。突如現れるかもしれぬ暴漢や不届き者より、ヴィヴィアンを警戒していることは間違いなかった。

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