2-1
――夢。過去。現実。
冷たい月が頭上で輝いている。地上でもがくたった一人だけをさらしせせら笑うように。
ヴィヴィアンの中ですべてが境界をなくし、曖昧さの中に意識が飲み込まれていた。
争乱の音が聞こえてくる。
騎馬兵が大地を揺るがす音。歩兵の喊声かんせい。剣戟けんげき。炎の声。阿鼻叫喚。前線に同行した聖女たちの、震える祈りの声、すすり泣き。
――そして異形の雄叫び。
無力だった。
どれほど敬虔な祈りであろうと、清らかな心身であろうと、神はそれを聞き届けてはくれない。
聖女の癒やしの力は、何かを傷つけられてはじめて出番を得る。
ヴィヴィアンの大切なものを、愛する人を守る力ではなかった。
(力が……)
心を折る無力感。神を呪い、憤る中でただその思いだけが強くなる。
聖なる癒やしの力など、多少ましな応急処置でしかない。そんなものでは、すべてを守ることはできない。
(力が、欲しい――)
激しく、身を焦がし頭をかきむしるほどにそう思った。
戦うための力が。
――敵を滅ぼすだけの力が、欲しかった。
誰かが泣いている。
小さく、高い声。
「――……」
重く澱んだ意識が、反応する。
ヴィヴィアンは緩慢に瞼を持ち上げた。しばらくして感覚が戻ってくる。
――すぐ側で、小さな子供の泣き声がした。
なんとか顔を上げると、へたりこんで泣きじゃくる侍女の姿があった。
「……アンナ……?」
どうしたの、と問おうとして、喉がひどく痛んでかなわなかった。
アンナは濡れた目を大きく見開き、身を乗り出す。
「ヴィヴィアン様……っ!」
小さな両手が伸びて、ヴィヴィアンに触れようとしてびくりと止まった。
アンナの顔に不安と混乱がよぎり、おろおろと手をさまよわせる。
自分はひどい有様だろう、とヴィヴィアンは疲れた苦笑を浮かべ、なんとか体を起こした。
服は破け、全身は擦り傷だらけだった。自分でかきむしったか、体をぶつけてつくったものだ。
部屋の中は、ヴィヴィアンに負けず劣らずの惨状を呈している。
嵐にでも遭ったかのようだ。
テーブルや椅子は倒され、食器の類は見るも無惨な破片となって散っている。壁にもまた傷をつけてしまった。
「……怖がらせてごめんね、アンナ」
「こ、怖くなんかありませんっ! ヴィヴィアン様が、こんなに傷つかれて……!」
アンナは再び顔をくしゃっと歪め、しゃくりあげた。
無垢な優しさと気遣いは、ヴィヴィアンの心を温かくする。同時に、この天真爛漫な少女をこんなふうに泣かせてしまうことが心苦しかった。
アンナが自分のもとにきて満月を迎えたのはこれがはじめてではない。だが、純真なアンナではまだ慣れないのだろう。
「大丈夫よ、なんてことないわ。すぐに治るんだから」
ヴィヴィアンは優しく微笑んだ。
「片付けと修復が大変ね。まったく毎度毎度私ときたら。アンナ、片付けを手伝ってくれる?」
できるだけ明るい口調で言うと、アンナがはっとしたような顔でこくこくとうなずき、だが遅れて
「それよりも手当てが先ですっ!」
と慌てたように言った。
これぐらいの傷なら手当ては必要ないとヴィヴィアンは思ったが、アンナのために大人しくされるがままになった。
そのあとでアンナと共に部屋の片付けを行い、アンナの帰りとともに船で運ばれてきた食糧・・を地下の貯蔵庫に移した。
葡萄酒ではない暗い赤の液体に満ちたボトルが、再び倉を満たしていた。
次の満月後、その次の満月後も同じ光景が繰り返される。侍女の一時退避、そして帰還のごとに倉のものは補充される。
(……いつまで)
いつまで、こんなことが続くのだろう。
暗く冷たい倉で、ヴィヴィアンはふとその考えに囚われる。
満月が近づくのをおそれ、満月を迎えるたびに孤独の中で耐え、月が欠けゆくにつれ仮初めの正気を取り戻す。
――終わることのない繰り返し。
まともにそれを考えると、目の前が真っ暗になる。底のない闇に落ちていってしまいそうになる。
頭を振ってそれを追い払った。
一日一日を過ごす。その先のことなど考えない。
未来など考えてはいけなかった。
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