1-2

 半透明の自分の顔の向こうに、海が見えた。

 この館は丘の上にあったから、眺めだけはいい。

 ――海のはるか向こうには、ヴィヴィアンがかつてすべてを捧げた国と、愛していた人がある。


『ヴィヴィ……ヴィヴィアン。どうか私を許してくれ』


 海を眺めると、しばしばそんな声を思い出す。

 彼は顔を歪め、苦痛を露わにしていた。かすかな寂しさが胸にわく。


(……そういう、定めだったのよ)


 ヴィヴィアンは乾いた声を胸中に響かせる。


 運命。

 その陳腐な言葉でしか片付けられない。


 ヴィヴィアンが愛し、将来を誓ったジュリアスはこの国の王子で、五年前の戦で思わぬ形で彼に王位継承権が回ってきたときも、自分と彼にとっては不運でしかなかった。

 ――あるいは、自分があのとき違う選択をしていたら。


 けれどやはり、女が王子の妃になることなど無理だっただろう。

 自分が手を出したものは、少なくない代償を支払わなければならないものだったのだ。


 五年前に感じた絶望と苦痛は、時に洗い流されている。あのとき真にできていなかった覚悟や諦めを、時間が身につけさせてくれた。

 心の古傷をなぞるようにヴィヴィアンが回想していると、ふいに喉に鋭い痛みを感じた。


 強い渇き。

 喉が鳴り、唾液がこみあげる。


 ヴィヴィアンは顔を歪めて唇を引き結び、一度奥歯を噛んだ。

 この感覚がやってくるたびに、強烈な嫌悪感が胸を焼く。

 いかなる水でも、美酒でも果汁でも癒えることのない飢え。


 窓から離れ、グラスを持って部屋を出た。

 アンナの姿がないことを確認して、地下の倉へと向かう。


 暗く冷たい階段を降りてゆく。倉の中は更なる冷気で満たされていた。

 等間隔でもうけられた棚には、かつて整然とワインがおさめられていたはずだ。

 いまも、棚にはいくつかのボトルが静かに収められている。

 ――だがその中身は美酒などではなかった。


 ヴィヴィアンはもっとも近くの棚からボトルをつかむと、一瞬ためらってから詮を抜いた。

 独特の臭気が鼻をつく。

 しかしいまの自分にはかぐわしい芳香にすら感じられ、また嫌悪が募る。


 ボトルの中身を、持参したグラスに注ぐ。

 粘性を帯びた暗い赤がグラスにたまってゆく。一瞬見れば葡萄酒と見間違う、だが酒よりももっと重く濃い液体。


 グラス一杯に注いだあと、ヴィヴィアンは一瞬ためらった。

 ――これを口にすることは、自分が人間と認めるようなものだ。

 たとえこれが人の体から得たものではなく、動物のものだとしても。


 グラスのふちに唇をつけると、一気に干した。

 気持ちとは裏腹に、生命の液体を流し込まれた体はかすかにざわめき、細胞の一つ一つが不平の声を小さくしてゆく。


 癒しがたかった喉の渇きが和らぐ。空腹感は去らないが、いまはこれだけでも耐えられるほどになる。

 空のグラスを手に、ヴィヴィアンはその場に座り込んだ。


 渇きは鎮まったかわりに、ひどく惨めな気持ちになった。

 いまは渇きを誤魔化せても、一日一日とまた酷くなる。次の満月を越すまでは、飢えを誤魔化す日々でしかない。


 ――たとえこんな浅ましいことをしても、それで飢えがおさまるのならいい。

 本国から送られてくるこのは、家畜からとったものだ。それは他の人間が肉を食べる行為と同じということもできる。


 だが、これでは飢えをおさめることはできないのだ。

 ――人のものでなければ。


「……っ!」


 ヴィヴィアンは衝動的にグラスを叩きつけた。悲鳴のような音をたて、グラスは砕け散る。

 そうして、顔を覆った。




 やがて満月を迎えると、館には主一人になった。

 常に侍っていた快活な侍女も、その日ばかりは近づくことさえ許されなかった。

 侍女は前日から、迎えにきた船へ一時的に退避させられていた。


 美酒ではないものをおさめた倉は、ボトルのすべてが空になっていた。

 ただ一人しかいない館――他に住人もいない小さな島に、おそろしげなうめきが響く。

 館の外にまで、ものが壊され破壊される音が断続的に響いた。

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