追放された元聖女は贄の青年に執着される~婚約破棄され、軟禁された果てに~
永野水貴
1-1
「吸えよ」
青年は冷ややかに言った。冷たく、青白く光る目が見下ろしている。
ヴィヴィアンは肺を病んだ老人のような息をし、握った両手に必死に力をこめた。だがそれは情けないほど 痙攣けいれんし、“飢え”が一瞬ごとに悪化していることを知らしめる。
「い、や……出て、いって!」
激しい拒絶をのせた声は、だがかすれてひび割れた。
――やがて唾液がこみあげ、口内に溜まりはじめる。
かすかな目眩がする。体が細かく震え出す。
青年が一歩、近づく。その気配を、ヴィヴィアンの研ぎ澄まされた神経は感じ取る。
「抗うなよ、聖女様」
軽蔑。暗い笑いを孕んだような声。
顔を見なくても、青年はこちらを蔑み見下ろしているとわかる。
だがヴィヴィアンに怒りはわかない。
喉がひくつく。
青年からとほうもない薫香が漂ってくる。
甘い甘い肌の匂い――体温を帯びた皮膚、その下に流れる熱い血潮を想像する。まるで温められた美酒だ。何よりも紅く、どんな美酒にも真似しえぬ鉄の味。生命の液体。
唾液が口の端からこぼれそうになる。
砕けそうになるほど奥歯を噛み、唇を強く閉ざして耐える。
――出て行って。
見ないで。
近寄らないで。
早く、と腹の底からの叫びは、だが獣のようなうなりに変わっただけだった。
青年の一挙手一投足を逃すまいと、鋭敏になった感覚がすべてそこへ絞られる。ヴィヴィアンの意思とは関係なしに体が反応している。
その聴覚が、衣擦れの音を鮮やかに拾った。
「ほら」
青年が、襟を開いたらしかった。
研ぎ澄まされた嗅覚に、肌の匂いが強くなる。青年が膝を折る。
ヴィヴィアンは、ぎゅっと内臓を引き絞られるような感覚に襲われた。空っぽの体が悲鳴をあげているようだった。
――欲しい。
滑らかな肌に歯を立て、破り、その下に流れる生命の潮をすすりたい。
彼の血は、きっと舌を刺すような熱さで酔わせてくれるだろう。
唾液が嚥下しきれぬほどこみあげてくる。体の震え。目眩。飢えが理性を侵蝕する。
ヴィヴィアンは激しく頭を振った。
「いや……っ!」
立ち上がる力さえないまま、獣のように這いつくばる。
青年がすぐ側で膝を折る。
嘲笑うように、ヴィヴィアンに手を伸ばした。
◆
――彼がやってくるまで、ヴィヴィアンの世界は、閉ざされた平穏の中にあった。
海に囲まれたその王国から、船で二日ほど西進すると小島が見えてくる。
そこはだいぶ以前には閑静な貴人の避暑地などとして使われていたが、五年前に聖女の“療養地”と定められて以来、ほとんど人の訪れぬ土地になった。
いまやそこに住むのは二人だけだ。
かつて貴人の別荘として使われていた館の一つに、その二人は住んでいる。
救国の聖女であった女、その身の回りの世話をする侍女である。
「ヴィヴィアンさまーっ!」
そういって元気よく部屋に飛び込んできたアンナに、館の主であるヴィヴィアンは一瞬だけ目を丸くした。
次に、思わず噴き出してしまった。
アンナは十二歳ほどの少女だが、大きな目と弾けるような明るさのせいか、もっと年下に見える。侍女のお仕着せですら、窮屈だといわんばかりに元気が漲っているようだった。
泥だらけの手に抱えられているものがある。
「見てください! きれいな白百合を見つけました!」
「あら、本当。……アンナ、でも根まで掘り出して土ごと持ってくるなんて念を入れすぎじゃない?」
「そうですか!? 百合はいざとなったら根も食べられますし、手折ってくるのはもったいないと思って!」
アンナは大真面目で、顔には得意げな表情が浮かんでいる。
ヴィヴィアンはまた笑った。
「庭に移し替えてきますー!!」
アンナはそう行って、再び元気よく去っていった。
ヴィヴィアンはその快活で小さな背を優しく見守った。
ここには庭師はいない。ヴィヴィアン一人の身の回りの世話や館の手入れはアンナ一人が行う。
ヴィヴィアンもできることはすべて一人で行っているが、それでもアンナの仕事は少なくない。
しかしアンナはくるくるとよく働き、不満を口にしなかった。
何より、これまで交代でやってきたどの侍女たちよりも、ヴィヴィアンに慣れるのが早かった。
怖れ、あるいは蔑み、極端に距離を置こうとする者が多かった中、アンナの気さくさと素直な明るさはヴィヴィアンに安らぎをもたらした。
ヴィヴィアンは立ち上がると、窓際に立った。
窓ガラスに、静かな女の顔が映っていた。
細い茶色の眉の下の、杏子色の目。少し丸めの鼻。紅をさすこともなくなった唇。明るい茶色の髪は五年の間に伸びて、背の真ん中に達そうとしている。
ヴィヴィアンは今年で二十四になる。
ここに移ってきた五年前と比べ、少し痩せたかもしれなかった。移ってきたばかりのころは異常な速さで体重が落ち、骨と皮だけになって目ばかりがぎらついていたが、それから少しずつ回復していった。
いまは平凡な顔だ。
平凡な――いかなる希望も未来も見ていない顔。
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