第42話 記憶
しあわせだった。
誰からも強制されず。
何者にも傷つけられない。
生き物としてこれ以上のしあわせはあるのだろうか。
わたしはそっとユキトさんに寄りかかり体を預ける。
大好きな人のそばにいて、その人との子供がいて、食べるものに困らない。
あとは少し好きな本が読めればいい。
たぶん、わたしが求めていたしあわせはそれくらいなのだ。
子供のころに自分で決めた幸せは、ささやかなもののつもりだった。
だけれど、大人になって分かったのは、それを手に入れるのはとても難しいことだって。
わたしはとてもラッキーだ。
ちゃんとした親の元に生まれて、教育を受け、地元では女の子なら理想である高校と大学を卒業した。
つぶれることのない大きな会社に就職することもできた。
そして、なによりも素晴らしい夫と結婚した。
お見合いでもなく本当に好きな人と結婚できた。
だけれど、その後がひどかった。
仕事に都合でわたしは夫と暮らすことができなかった。
会社には何度も掛け合ったが、一向に動いてくれない。
それどころか、激務と呼ばれる部署に配置され、週末ごと変えることができず、休日になると上司から意味もなく仕事に関する電話がかかってくる。
まだ結婚をしたことのない女性の上司からは「結婚して何が変わったの?」とあざ笑われる。
それでも、揉め事を起こしたくない私は「名字ですかね~」と言って、再び同僚たちからの嗤い声が響く。
結婚しても結婚生活なんてなかった。
彼女たちはきっと、自分が傷つけられた分、わたしを傷つけないと気が済まなかったのだろう。
その後、子供を授かったときには「誰がお前の分の仕事をするんだ」と叱責された。ますます仕事の量を増やされた。
それでも働いた。
普通なら妊娠すれば、仕事を辞めるように勧められるのに働き続けられるのだから貴重な職場だと思った。
もう若くないわたしには、他の職場にいくこともできないと思った。
生まれてくる子供のため。
すこしでも良い暮らしをさせてあげたいと思っていたから。
だけれど、ある日わたしのおなかのなかで子供は死んでいた。
生まれることもなく死んでしまった。
自分の身体の中に死体がある。そう言われても納得できなかった。
この間まで確かにそこに命があるといわれていたのだから。
なんの意味もなかった。
良い子どもであることも。
良い成績を学校で納めることも。
世間的に良いとされる会社で働くことも。
自分が得てきたそれらをすべて子供にも与えてあげたいと思っていた。
だけれど、死んでしまった。
死んでしまったらなんの意味もない。
どんなに働こうがあの子は戻ってこない。
あの子が戻ってこないのに、わたしがしあわせになることに意味があるのだろうか。
わたしはそのまま会社を辞めた。
本当は全員殺してやりたかった。
わたしの幸せを否定して、わたしを追い詰めた人間を。
でも、そう思ったときに気づいたのだ。
追い詰められても逃げきらなかったわたしが悪い……あの子を殺したのはわたしなのだ。
死体となって生まれ落ちることのなかったあの子はわたしの胎内でぐちゃぐちゃになっていたらしい。
医者がわたしのなかを診ながらそういっていた。
「ああ、こんなにぐちゃぐちゃになるまで放置しちゃって」
そのまま、手術が決まった。
点滴がさされ、自分の足で手術室まで歩く。
ドラマだとストレッチャーみたいなものに乗って運ばれるその先にあるのは、銀色でまぶしいくらい照らされた清潔な部屋だけれど、わたしはスリッパを素足であるいたまま向かったのは思ったよりも雑雑として、色あせた機械や古い薬剤の棚がある部屋だった。
リノリウムの床を大きすぎるスリッパがパタパタとたたく。
本来ならば、誰かに運ばれる場所であるはずなのに、わたしは自らの足で歩き、死んだ子供を取り出された。
なにかの罰だと思った。
わたしが子供のことを考えて、働くのをやめていればこんなことにならなかったのかもしれない。
わたしがすべてそろった幸せをもとめなければ、おなかのなかの子供は死ななかったのかもしれない。
そんな後悔に襲われた。
どんなに悔やんでも悔やみきれない。
手術中に麻酔をしているのにも関わらず痛みを感じた。
ぼんやりとする意識の中で「痛い、痛い」と口にすると、
「うるさいっ、痛いことはしていない」
と手術をしている医者に怒鳴られた。
わたしは悪いことをしたのだ。
みんなが当然とするしあわせにちゃんと従おうとしただけなのに。
子供を産めなかったわたしは、しあわせの形からずれた人間で社会の敵だった。
それは怠惰にしていてかなえられなかった弱者に向けられるものとは違う。
他の幸せの条件を手に入れたのにかなえられない人間はいくらでも社会はせめていいらしい。
手術が終わって治りきらない体のわたしに会社から電話がかかってくる。
次はいつ出社するのかと。
お前の仕事は山のように積みあがっていると。
前もって、療養の期間についての診断書があるのにも関わらず、手術が終わったのだから早く仕事をしろと。
でも、その山のように積みあがっている仕事は、育児休暇で休んでいる女の分をわたしに振り分けた分だった。
幸せじゃない人間はどこまでも見下し、こき使っていいらしい。
子供を産まなかったのだから仕事ができるだろう。
産んでないのだから普通と変わらず仕事をしろと。
そんな命令が永遠と続いた。
体も心も調子を崩したわたしは会社にいけなくなった。
ひとりで済む部屋のなかで何かから逃げるようにうずくまるわたしを見つけたときの夫は本当に悲しそうな顔をしていた。
「もう逃げてもいいんだよ、もう帰ろう。大丈夫、大丈夫だから」
大丈夫ってまるで自分に言い聞かせるようにつぶやくユキトの声を聞きながら、わたしは静かに目を閉じて頷いた。
ずいぶんと痛みを続けている日々が続いていたんだなと夫に体を預けながら思った。
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