第43話 取り戻して

「いままで、ありがとう」


 わたしはユキトさんの手をそっと握った。


「えっ、どうしたの?」


 ユキトさんはちょっとびっくりしたようにこちらの顔を覗き込む。

 この人は、ずっとわたしを守ってきてくれたのだ。

 向こうの方であれが手を振っている。

 わたしとユキトさんにどこか似ているそれはとても元気そうだった。

 わたしが無理をしなければ、わたしが間違うことがなければ、あの子もこうやって産まれて笑うことができたのだろうか。


「ねえ、あの子しあわせかな?」


 わたしとユキトさんの面影をのこすあれはこちらをみて、嬉しそうに手を振り走ってくる。「危ないわよっ」とキヨさんのように声をかけることもできずに、代わりにでてきた言葉だった。

 わたしが尋ねるとユキトさんは悲しそうな顔をする。

 どうして?

 いま、わたしたちはしあわせなはずなのに。どうしてそんな悲しそうな顔をするのだろう。


「……ねえ、君はしあわせかい?」


 わたしはその質問に答えることができなかった。

 今のわたしは誰がどうみたってしあわせなはずなのに。

「しあわせ」って即答するはずだったのに、なぜかその言葉が喉のあたりで重く冷たい粘土の塊のようになってひっかかっている。


 そもそも、どうしてわたしは今しあわせなのだろう。

 わたしはもうしあわせじゃないはずだった。

 失ったのだから。

 良い学校、良い会社、素晴らしい夫。それらを確実に手に入れる代わりに年を重ねてきた。

 べつに年齢は恥じることではない。

 しあわせを手に入れられるのなら。

 失敗していなければ、その年を重ねてきたことも勲章だ。

 だけれど、わたしは失敗した。

 子供を失ったのだから。

 わたしはもう取返しのつかない過ちを犯した。

 しあわせになれるはずの子供を殺してしまったのだから。

 わたしがしあわせになろうと頑張らなければ、子供は生まれていたかもしれない。

 わたしのせいではないと夫からも医者からも言われた。

 だけれど、じゃあ、どうしてわたしは手術で痛みを訴えただけでどなられたのだろう。どうして、手術後すぐに働くことをもとめられたのだろう。

 きっと、すべてわたしが悪いからだ。

 わたしのせいで、子供は鼓動を打つことなく消えていった。


 わたしがしあわせになっていいはずがなかった。


「……しあわせじゃないかも」


 わたしが、そう口にした瞬間、あれが転んだ。

 いや、ただ転んだのではない。崩れたのだ。

 足の指、十本がすべて取れていた。

 あれは慌ててそれを拾い集める。

 わたしの縫い方が悪かったのだろうか。

 這いつくばりながら、あれは足の指を探す。

 さっきまで元気に地面を蹴っていたのが嘘のように、よわよわしく這いつくばりそれは足の指をさがしていた。

 手を何度も地面につき、たたくようにしている。

 ようようみると目玉も片方しかないようだった。

 糸を引いたそれの部品が地面に転がっている。もともとはわたしの髪の毛だった糸は、強いはずなのに途中で切れていた。


「しあわせじゃない……これはわたしのしあわせじゃない」


 そう、今目の前にあるのは誰かに決められたしあわせだ。

 それを口にすると、あれは四つん這いからさらに崩れ落ちる。

 腕が落ち、首が不自然な方向に曲がる。

 糸にしていたわたしの髪がほどけるか切れるかしたらしい。

 あれは、ひしゃげた格好で痙攣していた。


「ねえ、ユキトさん。ううん、ユキト。わたしたちこれじゃだめだと思う」


 あれの動きが止まる。

 痙攣がとまり、すべての細胞からあきらめたように血や浸出液が漏れでて、土を湿らせていく。

 どんどん形が失われていった。

 ぐちゃぐちゃだ。あの子と一緒でそこには何の形もこの世界に存在した証拠もなくなっていた。


 周りが異変に気付いたのか悲鳴をあげる。

 村の女たちは必死でまだ無事な形をしたわが子を抱きしめる。

 名前を呼ぶ人もいた。

 そんな女たちを夫たちは静かに見守っていた。


 キヨさんは、子供の顔を両手で挟み込み必死に瞳を覗き込んでいる。

「しいちゃん、しいちゃんっ。大丈夫? 駄目よ。もうあなたを失うことなんてママは耐えられないのだから」

 子供はぽかんとしているが、キヨさんはそれをもう二度と話さないというように強くだきしめていた。

 他の女たちも似たり寄ったりだ。


「……有瀬さん、ちょっといいですか?」


 気が付くと後ろに蜂神さんがいた。蜂神さんといっても旦那さんの方だ。

 奥さんの方は、何かを抱きしめ、顔をうずめて静かに泣いている。

 わたしはどうすればいいか分からなかった。

 目の前で起こった奇妙なできごとにも。

 自分の記憶とつじつまの合わない目の前の景色。

 そして気づいた自らの記憶の欠落。

 考えなければいけない情報が恐ろしい勢いで流れていく。


 ユキトをみると「行こう。大丈夫だから」と静かに言った。

 すこし弱々しい夫はわたしの良く知っている本来の彼だった。

 優しくて頼れるけれど、ちょっぴり寂しがりやなところもある最愛の夫。

 大学の同期で優秀だけれど、リーダーとかじゃなくて誰かを支えるようにサークルも会長ではなく副会長を務めていた。

 誰かのために働ける思いやりも余裕もある彼がとても愛しかった。

 無鉄砲で自己主張の強いわたしをいつもたしなめて、フォローしてくれたのは彼だった。


 夫とともに先ほどの部屋に戻される。


「有瀬さんの奥さんは記憶を戻されたんですか?」

 蜂谷さんの旦那さんがユキトに尋ねる。

「そうなの?」

 ユキトはわたしの方をみて確認する。

「全部じゃないけれど……なんとなく。一体これはどうなっているの?」

 わたしはやっと疑問を口にする。

 そう、おかしいのだ。

 わたしはユキトと十も年が離れていない。

 なのに、この村でわたしは確かに若い娘として生きていた。

 大学を卒業して、駆け落ち同然でこの村にやってきたつもりでいた。

 周囲の女性だって、わたしのことを若い女としてかわいがってくれていた。

 今だって、壁の鏡の中に映るわたしの姿は十分若い。

 二十代の肌、若い女特有の髪の輝きがあった。

 わたしはもうこんなに若くないはずだ。そう、以前、ユキトとでかけたときにガラスに映った自分が本来のわたしの姿に近いはずだった。

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