第36話 逃亡

 結局あの死体のことは誰も取り合ってくれなかった。

 周囲を歩く人々に見てもらったが、「有瀬さん、ちゃんと奥さんに説明しておいてあげないと可哀そうだよ」とほかの家の旦那さんたちにユキトさんがたしなめられる形になった。

 あれが作り物なんて信じられなかったけれど、男性の中の一人が作る過程のパーツがばらばらな状態になっている写真をみせてくれた。

 男性というのは写真を趣味にしている人以外はみんな写真をとるのがそこまでうまくなく、少しピントがずれてバランスがよくなかったが、確かにあの川を流れていた人形がそこには写っていた。

「でも、まるで本物の女の人みたい」

 そういうと、男性たちはがははっと豪快にわらった。

「うれしいね。そんな風にいってもらうと作り甲斐があったよ。有瀬さん、奥さんはちゃんと大事にしなよ」

 そう言って、その場は丸く収まった。

 どうやら、わたしたち女性の料理教室や祭りの準備と似たようなものが男性側でもあるらしかった。


「ごめんなさい。わたしてっきり死体だとおもってみっともなく騒いでしまって」

 他の家族が先に進んだあと、わたしはユキトさんに謝った。

 恥をかかせてしまったから。

「大丈夫だよ。それにみんな本物みたいに見えたのはとてもよろこんでいるみたいだし。俺も前もって祭りの内容について話していなかったのが悪いし。こっちこそごめんね」

 そういったユキトさんの掌は汗ばんでいた。

 ユキトさんでも緊張することがあるらしい。

 いつも余裕をもった彼でも緊張するのは新しい姿を見られたみたいで愛しかった。

「説明してないことはまだあるけれど、とにかく祭りを楽しんで」

 ユキトさんが歩き出す。

 わたしは静かに「うん」と頷いた。

 なんだか初めてデートに行った大学時代を思い出した。


 祭りは本当に美しかった。

 たくさんの出店がでている。

 祭りの出店というと怪しげな的屋のおじさんがやっていて、値段も衛生状態も考えても眉を顰めることが多いけれど。

 どの店も無料だった。

 今なら、子供の頃に憧れていた屋台のくじを当たりがでるまで引くこともできる。

 金魚すくいだって一番可愛い出目金を捕まえることができる。

 屋台の食べ物だって食べ放題だ。

 ふわふわと甘い綿あめにつやつやのりんご飴。

 どこからか聞こえてくる笛の音は楽し気であると同時にどこか切なくなるような気持になる。


 あれだけ奇妙な準備を繰り返してきたのに、わたしとユキトさんの目の前に広がる光景は普通よりちょっぴり素敵なだけで、普通のお祭りの光景だった。

 でも、一つだけ異様なことがある。

 前から気づいていたが……気づかないふりをしていた。

 この村には子供がいない。


 子供が一人たりともいないのだ。


 今まで子供の姿を見たことがなかった。

 コミュニティーセンターや祭りの準備、村の中を歩いていても子供を見たことがなかった。

 たくさんの夫婦がいるのに子供の話を聞いたことがない。

 都会ならば、その家庭の事情や考え方もあるので、相手の家の子供の話をあえて聞かないこともある。

 けれど、この村では誰も子供のことについては口にしない。

 軽はずみで相手を傷つける失言も。

 自分の子供のことも。

 相手のライフプランも。

 子供がかかわることについて口にする人間が一人たりともいないのだ。

 だれも子供がいない。

 それは奇妙なことだった。

 田舎だからと思うけれど、普通田舎の価値観でいえば、わたしたちぐらいの年代の夫婦は当然子供がいるべきなのではないだどうか。

 それどころか、この村には老人もいないのだ。

 みんな二十代から四十代。

 村というのには年代が偏りすぎているコミュニティーだ。

 なにかがおかしい。

 なにかが変だ。

 ずっと、見ないふりをしていたけれど、祭りという非日常でこの村の異常性が浮き彫りになった。


 逃げなくてはいけない。

 わたしはとっさにそう思った。

 だけれどわたしの手はしっかりとユキトさんに握られている。


 いやだ。

 じっとりと、首筋に汗が吹き出す。

 好きな人と手を繋いでいるのに、どうしてこんなに嫌悪感を抱くのだろうか。


 そういうえば、汗をかく割にここは全く暑くない。

 そもそも、わたしはこの村に越してきてからまったく、寒さや暑さを感じない。

 それにたいして、特に疑問に思うことは無かった。

 変なことばかりなのに。


 通常では考えられない速度で育つ食物。

 何時も快適な気温。

 村という共同体に子供が全く居ないこと。


 奇妙でありえないことばかりなのに。

 快適過ぎるせいでそのことをまったく疑問に思ってこなかった。

 いや、背けようとしていただけかもしれない。


 ……子供と言えばこの村に来てから一度も月のものが来ていない。


 この村は何かがおかしい。


 快適じゃない奇妙な現象だってたくさんあった。

 夜に目撃する白い獣たちの交わり。

 あれもすべて、村の住人だ。

 料理教室というなのもとに作らされて決して口に入ることの無い料理たちはまるで人体の一部をもしているようだ。


 大切な人が一緒だから大丈夫だってずっと自分に言い聞かせてきた。でも、これは逃げなければいけない。

 まるで、いつか物語でみた、人を生け贄にする村みたいではないか。

 でも、どうやって逃げるというのだろう。この村から。

 わたしは村の外に頼れる人間なんていない。

 だって、両親にはなにも言わずに駆け落ち同然で結婚してここにきてしまったのだから。


 本当にそうだろうか……わたしは本当にそんなことをするだろうか。

 大学と卒業と同時に、いくら大事な恋人だとしても両親に黙って駆け落ち同然で結婚するだろうか。

 わたしはそんな人間ではない。

 結婚するなら、ちゃんと周囲から認められたい。

 たとえ、反対されてもきちんと説得したうえで結婚したいと思うはずだ。

 逃げるように駆け落ちななんてしない。


 わたしが苦労して手に入れた就職先を結婚のためだけに手放すだろうか。

 誰よりも真剣に就活をして、苦労もしてきた。

 それなのに、結婚するという理由だけでその会社に入社しないなんてことあるのだろうか。

 わたしだったら、結婚する前に社会経験のためにも一度は就職して、向いているかどうかわからなくても会社で働いてみる。

 そもそも、自分が勝ち取った椅子だ。

 そのために落ちた人もいるのだから、一度はちゃんと責任をもって働くはずだ。


 そもそも、虫も土も嫌いだ。

 しかも、得体のしれない田舎の村。

 そんなところで家庭菜園をしながら生活をしたいなんてわたしが思うわけがない。


 わたしが料理なんて習いたいと思うだろうか。

 最低限はできるつもりだ。

 そりゃあ、特別上手というほどでもないけれど。


 わたしが、誰かに定められたルールに理由を分からずにそんな簡単に従うだろうか。

 昔から納得ができなければ自分を曲げられない性質だ。

 中学生のときなんて、校則になっとくができず全校集会で生徒会長を名指しで批判して校則が変わったくらいだ。


 わたしが、いくら好きになった相手のためとは言え、見ず知らずの土地に嫁ぐのだろうか……それだけは分からない。

 愛する人と一緒にいるためならば。


 わたしという存在が自分でも分からなくなる。

 自分の古い記憶の中にあるわたしの考えかたと、この村に引っ越してきたばかりの私の行動がまったく一致しない。

 どちらも自分のような気がすると同時に、全くの他人のような気がする。


 わたしは一体だれなのだろう。

 今ここにいるのは本当のわたしなのだろうか。

 わからない。


 わたしは思わずその場にうずくまる。

 頭が痛い。

 そうだ、昔のわたしはこうして度々頭が痛くなっていた。

 でも、この村に来てからそんな頭痛には見舞われていない。


 ユキトさんも心配そうにこちらを見ている。


「大丈夫?」


 ひんやりとした手がおでこに触れる。


 ふと、手がもうつながれていないことに気づく。


 逃げよう。

 逃げなければいけない。


 わたしは、少しだけかがむ。

 そこにあったはずのわたしがいなくなってユキトさんは少しバランスを崩す。

 今だ。

 わたしはその瞬間、走り出した。


 ユキトさんは驚き、その後何が起きたのか理解したのだろう。

 とても悲しそうな目でこちらを見つめていた。

 だけれど、もう走り出してしまった以上、立ち止まるわけにはいかなかった。

 あらんかぎりの力でわたしは地面を蹴る。


 嗚呼、こんなに懸命に走ったのはいつ以来のことだろう。


 幸いなことに、周囲のカップルも驚きはするものの、追ってくるようすはない。

 男性たちはみんな自分の妻の手をしっかり握っているから、追いかけることができないのだ。


 どこへ向かえばいいかわからない。

 けれど、わたしは必死に走った。


 できるだけ人のいないところ。

 夕方から夜のカーテンへかけ替えられたころにたどり着いたのは、ユキトさんがデートで連れて行ってくれた湖だった。


 以前と変わらずに、澄んだ水をたたえ恐ろしいほど美しい月を照らしている。

 なんで気づかなかったのだろうか。

 湖に月が二つも輝いていることに。


 わたしは、疲れ切っていた。

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