第37話 月月

 どうやってここから逃げればいいのだろう。

 まったく見当がつかない。

 そもそも、この村の正確な広さもしらない。

 ああ、でもユキトさんと一緒にあのホテルに向かう前はたいていここに来ていた。

 綺麗な景色をながめているうちに眠くなり、たいてい気が付くとベッドの上にいた。


 きっと、この湖の先に行けばこの村に出られる。

 そう、自分に言い聞かせた。


 本当はどうだかわからない。

 だけれど、迷ったとしてもこの先に進む以外の道はない。


 靴を脱いで、水面に足を沈める。

 どこまでも透き通った水はその見た目通りの冷たさだった。


 本当にここを超えていいのだろうか。

 もし、わたしのおなかのなかにユキトさんとの子供がいるとして、わたしはその子供をしあわせにしてあげられるのだろうか。

 冷たさがどんどん這い上がってくる。

 まるで足の先から、蛇が巻き付きそこから体温を奪っていくようだ。

 冷たさが過ぎたあとの部分は何も感じなくなっていく。

 冷たさも痛みも感じない。

 まるでわたしの存在と同じだ。

 本当にそこに存在しているのかさえ分からなくなる。

 こうやって目でみていなければ、わたしの足が消えてしまうように錯覚する。

 少しでも目を離したら、わたしの足はなくなってしまう。

 そんな気がした。


 両足が水の中に入ったとき、わたしの手をひどく熱いものが触れた。

 よく知っている――ユキトさんの手だった。


「帰ろう……」


 ユキトさんはひどく動揺している。いつもは自分より落ち着いていて大人だなと思っていたのに、急に幼く見えた。

 幼く頼りない彼が必死に帰ろうといっていると思うとそれを無下に振り払うことはできなかった。


「ねえ、なんで? わたしはどこに帰ればいいの?」


 自分でも意外なことにわたしの声は震えていた。

 ユキトさんのことを子供みたいなんて思っていたけれど、わたしの声も泣き出す寸前の小さな女の子の声みたいだった。


「家に帰ろう……ふたりの家に」


 わたしはその言葉を聞くと、涙があふれだした。

 訳も分からず悲しさがあふれ出てくる。

 おんなじ言葉をユキトさんの口からきいたことがある気がした。

 そのときの感情だけがよみがえっているみたいだった。

 でも、わたしは何をそんなに悲しんでいるんだろう。

 涙が止まらなかった。


 ふたりの安全で幸せな場所があるはずなのに。

 なぜだか二人だけじゃいけない気がした。


「ねえ、わたしたちは本当に二人家族なの?」


 わたしはふと口にする。

 自分でもなんでそんなことを言ったのか分からない。

 だけれど、なにか忘れているようなきがした。忘れてはいけないものを忘れてしまっているような気がしたのだ。


 ユキトさんは困った顔をする。


 よく見るとユキトさんの目にも涙がたまっていて、零れ落ちる寸前だ。

 ああ、だめだ。

 この人にこんな表情をさせているのはわたしだ。

 わたしがすべていけないのだ。

 なにがあったとしても、ユキトさんはわたしにとってかけがえのない存在だというのに。


 わたしは静かにユキトさんの手を握った。


「帰ろう」


 彼が言ったセリフを今度はわたしが言った。

 彼をこれ以上、悲しませたくなかった。


「ねえ、わたしたちに家族が増えるかもしれないよ」


 わたしが言うとユキトさんは静かに頷く。

 つないでいない方の手でそっと涙をぬぐっている。


「うん、そうだね。もうすぐ家族が増えるよね」


 ユキトさんはそうゆっくりいって、わたしたちは歩き出した。

 家に帰ろう。

 そうだ、家族が増えるのだ。

 家族三人での暮らしがまっている。

 快適な村で理想の家族三人の暮らしができる。


 ユキトさんとわたしは固く手を握ったまま、静かに家への道を歩いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る