第27話 湖とピクニック

 目の前に広がるのは大きな湖だった。

 澄んで美しいそれは、周囲の森の木々を映しだし、幻想的な色を放っている。


「どう? 綺麗でしょ。ずっとここを見せたいと思っていたんだ」


 ユキトさんは、嬉しそうにいった。

 わたしはそんなユキトさんにたまらず抱き着いた。

 怖かったのと安堵したのいろいろな感情が混ざり合って言葉にするのが難しいし、どの感情を一番最初に口にするべきか分からなかったから。

 ユキトさんの手がわたしの背中をポンポンとたたく。

 ああ、安心する。いつものユキトさんだ。

 わたしはずっと寂しかったんだ。

 そう気づいて、さらにユキトさんをぎゅっと抱きしめた。


「……きれい」


 その一言だけ発した。

 本当は怒ってもいるし、怖かったって泣きたいし、わたしのために何かを準備してくれていたことが嬉しかったし、それを全部、今この瞬間に伝えきるのは難しいと思ったから。

 二人でしばらく湖を無言で眺めた。

 ああ、こんなに穏やかな気分は久しぶりかもしれない。

 時折、湖面が揺れきらきらと輝くのは魚でもいるのだろうか。

 ふと、死ぬのならばこんな場所がいいなと思った。

 多くの人は老衰して穏やかに死ぬことをぼんやりと想像しながら、死ぬことから目を背けて日常をいきているけれど。

 わたしは自分の死は自分で決めたい。

 ちゃんとお気に入りの服を着て、大切なものの行先を決めて、大切なものにはお別れいいたい。

 その方がずっと自分の生きていた時間を大切にしている気がするから。

 ただ、ぼんやりと死を待つより誠実だし綺麗だと思う。


 湖にボートを浮かべることを想像する。

 銀色の月が静かに輝く夜、一人ぼっちでボートに乗る。

 もちろんお気に入りのワンピースを着よう。今のところこの湖で死ぬのならば大学時代に買った白いレースのワンピースが一番ふさわしい。ワンピースをきて、花屋で一番すてきなブーケを作ってもらおう。

 あとは睡眠薬の瓶が入ったバスケット。

 睡眠薬が瓶で手に入るのかはしらないけれど。病院でくれる薬はたいてい一錠ずつ個包装されている。だけれど、瓶に入っていたほうがなにか特別なもののようでいい。瓶のコーラだって、ペットボトルのコーラより美味しいのだから。きっと、瓶にはいることによってなにか特別な魔法がかかるのだろう。

 静かな闇の中に一人でボートを漕ぎだすのだ。

 ちょうど月が映っているところまでボートを漕いで、紅茶と一緒に睡眠薬を飲むのだ。

 カフェインと一緒に睡眠薬を飲むなんて変かもしれないけれど。

 そうすれば、わたしは月の上で死ねる。

 人類ではじめて月の上の死んだ人間になれるかもしれない。


「ねえ、おなかすかない?」


 ユキトさんの声がわたしを空想から引き戻す。

 この人はいつもそうだ。

 死のうとしているわたしを止める。

 だけれど、聞かれてみると確かにおなかはすいているので、わたしはこくりと頷いた。


 ユキトさんは車からバスケットを取り出す。

 さっき、想像していた自分が睡眠薬とブーケをいれたいなと思っていたものにそっくりでびっくりする。

 ユキトさんは驚いているわたしをよそに、ピクニックの準備を整える。

 赤と白のチェックの敷物、おいしそうなサンドイッチ、熱い紅茶にチョコレートがかけられた苺。

 理想のピクニックだった。


「ほら、寒くないようにこれをかけて」


 そう言って、ユキトさんはブランケットを差し出す。

 ユキトさんはやっぱり優しい人だ。


「うん、ありがとう」


 わたしはブランケットを膝にかけ、差し出された熱い紅茶を飲む。舌を焦がすように熱く濃い紅茶はこのみだった。お酒を飲んでいるみたいな気分になれるから。


「美味しい」

「よかった」

「ユキトさんが作ったの?」

「まあね……」


 ユキトさんて料理得意だったんだなと思う。サンドイッチに入っていたキュウリはものすごく丁寧に下処理がされていて青臭さが全くなかった。

 ユキトさんって料理できたっけ?

 学生時代はわたしが料理をしていた。だけれど、なぜだか知らない場所で料理をするユキトさんの姿が頭に浮かぶ。

 わたしは深く考えないことにする。

 大人だし、一人暮らしだったのだから料理くらいできるだろうと自分を納得させた。


 美味しい食事にきれいな景色、心地のよい夫婦の会話――すべてが完璧だった。


 いくら好きな人と一緒だとしても、村での生活は不安だった。

 見知らぬ土地で、自分ひとりだけが異質な存在になるが怖かった。

 だけれど実際はまあまあ楽しい。

 感じがよくて頼れる友人キヨさんに料理教室というならいごと、それに優しい夫がいる。これ以上、求めることはあるのだろうか。

 わたしは幸せだ。

 でも、なにか足りない気がする。

 そう、幸せな生活にかけている重大なもの……それは子供だった。


 子供が欲しいとずっと思っていた。

 はっきりと口にはしないけれど。

 だけれど、結婚するというのはそういうものだと思っている。

 結婚したら次は子供。

 多くの女性は社会からそれを求められる。

 まだ新婚だけれど、きっとわたしも時期に世間から「お子さんはまだ?」と聞かれるようになる。特にこんな田舎のみんなが顔見知りの社会なんだから聞かれるに違いない。

 先人たちは、この無邪気な問いかけに傷つき抗議の声をあげてきた。

 だけれど、世間はちっとも変わらない。

 でも、その残酷な問いかけを受けずに済む方法は一つだけある。

 問われる前に子供がいればよいのだ。


 子供のころから優等生だったわたしは別に特別優秀なわけではない。ただ、何事も人よりちょっとだけ予想を立てて先回りして動くことができるだけ。

 急にほしくなったわけではない。ずっとずっと考えていたことだ。

 新しい環境に慣れるまでなんて言ってられない。

 時間がないのだから。


 だけれど、ここでユキトさんに「子供がほしい」というのは何となく言い出せなかった。


 わたしは静かにユキトさんの肩に頭を預けた。

 なぜだかとてつもなく眠かった。

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