第1話 青い花の向こうの村

 たどり着いたのは青い花畑だった。


「海みたい」


 思わずこぼれ落ちたわたしの独り言に夫であるユキトさんは、


「そうだね。そして本物の海がこの向こうにあるんだ」


 ちょっといたずらっぽくつぶやく。

 まるで天国みたいな場所だった。

 小さな青い可憐な花が何百、何千と咲いている光景は現実のものとは思えない。

 こんなに美しい光景は人生ではじめてかもしれない。


「新婚旅行できたかったな……」


 そうつぶやくと、


「新婚旅行どころか、これからずっとここで暮らすんだよ」


 と優しく、ただどこか感極まったような声で言った。


「永遠に続く新婚旅行ね」


 わたしの言葉に彼はあいまいに頷く。

 永遠に続く新婚旅行って結構ロマンチックだと思ったのだが、彼は気に入らないのだろうか。

 でも、今のところわたしたちは新婚なのだから新婚らしくさせてもらおう。

 わたしはユキトさんの手を握り、「ずっと一緒にいようね」とほほ笑む。

 男性というのはこういう押しには弱い。

 高校は女子高だったから、大学に入って男子がいる環境に慣れなかったわたしもさすがに大学生活で学んだ。

 その証拠に、ユキトさんは口では何も言わないけれど手をぎゅっと握り返してきた。


「さあ、ここは入り口。村の中心まではもう少しかかるんだ」


 そう言ってユキトさんはわたしに車に乗る様に促した。


 ユキトさんはわたしより十歳年上だ。

 であったのは大学のサークル。

 彼がサークルのOBで文化祭で出会ったのだ。

 一回り近く年上の彼はいつも穏やかで落ち着いていて、男慣れしていないわたしでも親しみやすかった。

「もう、おじさんだからなあ」とかいうけれど、話は合うし面白い。


 誰よりも優しい彼を好きになるまでそう時間はかからなかった。


 わたしの猛烈なアタックにより、彼と付き合うことは叶った。

 一緒にいる時間が長くなればなるほど、彼への愛が深まった。

 彼と結婚したいと思っていた。



 大学卒業と同時に駆け落ち同然で結婚した。


 内定していた会社に就職せずに、結婚して彼の故郷に住む。

 正直、安くはない教育費をかけてくれて来た両親には申し訳ないような気がする。

 特に、自立した女性になることを強く望んでいた母は落胆するだろうと、結婚したことはまだ内緒にしている。

 向こうでの生活が安定したら、わたしがどれだけ幸せかを知らせよう。

 そう、文句がつけられないくらい誰よりも幸せになればいいのだ。

 幸せにならなければいけない。


 わたしはそっと隣で運転するユキトさんの腕に触れる。

 あたたかいけれど、着ているニットがウールのせいか少しだけチクチクした。

「どうしたの?」

 ユキトさんは優しく微笑んで首をかしげる。


「なんでもない。ちょっと疲れてしまったかも」


 わたしは無理やり笑う。

 笑えば、脳が勘違いしてくれるとどこかで読んだから。


「もう少しだから。村は結構広いんだ。家と家が離れているせいで。どこかで車を止めようか?」

「ううん、大丈夫。それよりユキトさんは運転疲れていない?」


 わたしがボトルのコーヒーを差し出すとユキトさんは「ありがとう」と受け取った。

「だめだよ。結婚はゴールじゃなくて始まりなんだから。最初から無理したらだめなんだよ。適度に休憩しなくちゃね」

 わたしはふざけていったけれど、なぜだかユキトさんから返事はかえってこなかった。

 山道というのはどうしてこんなに不安になるのだろうか。

 すべての影が濃く、まだ夜ではないのに、闇との境があやふやで自分の目を疑うことになる。

 さっきみた美しい花畑が幻だったのではないかと自分の記憶を疑い始める。

 いや、わたしは昔からこうなのだ。

 不安になると、自分の記憶さえも信用できなくなる。

 わたしはうまくやっていけるのだろうか。

 そんなことを自分の中で鬱々と考えているとき、ユキトさんはそっとしておいてくれる。

 安心できる人。


「ほら、見えてきた」


 何も見えない。山道を走っている間に外はずいぶん暗くなってしまっていた。

 だけれど、ユキトさんが見えているのだからきっと普通の人ならば見えている状況なのだろう。

 それに、見えすぎないほうが幸せなこともある。

 部屋の掃除とかね。

 だけれど、専業主婦となるわたしには掃除は仕事なのだからもっとちゃんとやるべきだろう。

 明日からはきっと頑張ろう。

 わたしはあいまいに頷いて、ユキトさんの指し示す方向を見つめる。

 わたしがこれからの人生を過ごす場所。


 少しでも良いところだといいな。

 わたしは今度こそうまくやりたい。


 わたしは強く目を閉じて祈る。

 子供のころからの癖なのだ。

 いち、にい、さん――。

 目を閉じて数を数える。

 再び目を開いたとき、少しだけ世界はよくなっているはずというおまじないだ。

 テストの結果をみるときとか、好きな人に告白したときとかわたしはずっとこのおまじないをつかってきた。

 子供っぽいかもしれないけれど、やめることなんてできない。


「ほら、ついたよ」


 思ったより目をつむっていたらしい、気が付くと目の前には、アニメやドラマで見てきたような穏やかな農村の風景があった。

 すべてが自然のものでできた、まるで時間が止まったような場所だった。

 艶やかな飴色になった木のひんやりとした感覚が見ているだけで伝わってくるようだった。


 ユキトさんは車のドアをあけて、わたしが外にでるように促した。

 わたしは促されるまま、車から降りる。

 スニーカーを履いてくればよかったと一瞬後悔したが、地面は思ったよりも固く、ぬかるみに滑ることはなかった。


「ようこそ、祭鳴村へ」


 そう言ってほほ笑んだ彼の顔はどこか寂し気で、これからのわたしたちの運命を暗喩しているようだった。

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