似顔絵(後編)

 ダイニングテーブルを三人で囲み、わたしが淹れた紅茶を飲みながら、マツバさんが買ってきてくれたケーキを食べる。何種類かのフルーツが使われた、断面がカラフルなかわいいケーキ。わたしは店の名前を知らなかったが、若い女性に人気があるケーキ店で購入したのだそうだ。マツバさんが自信をもってすすめるだけあって、味は申し分ない。

「はい、あーん」

 マツバさんは自分のフォークですくった一口ぶんのケーキを、わたしや姫に食べさせようとした。わたしは苦笑して断ったが、姫は受け入れた。羞恥心が薄いのもあるが、わたしに断られて、大げさにショックを露わにしているマツバさんを見て、同情したからでもあるらしい。

「マツバにも食べさせてあげる。はい」

 姫は一口ぶんのケーキの塊をフォークに突き刺し、マツバさんに差し出した。

「えっ、マジで? わー、優しい! 姫ちゃん、ありがとう!」

 マツバさんはさっそくケーキを頬張った。大輪の花を咲かせるマツバさんを見て、姫もにこやかな表情になる。

 わたしは複雑な感情が胸中で渦巻くのを感じながら、二人の仲睦まじいやりとりを黙って眺めている。

 そう、仲睦まじい。わたしが時間をかけて引き出した姫の笑顔を、マツバさんはたった二回の顔合わせで手中に収めた。

 子どもが好きで、扱いが上手だから。明るくて、気さくな性格だから。他人との距離を縮めることをためらわないから。

 説明の仕方はいろいろあるだろうが、煎じ詰めれば、わたしよりもマツバさんのほうが姫との相性がいい、ということになるのだろう。

 表面的には和気あいあいとした雰囲気の中、時間が過ぎていく。

 ケーキを食べたあと、姫とマツバさんは姫が描いた絵を鑑賞していたが、マツバさんが唐突に「私の似顔絵を描いて」とリクエストした。照れがあるのか、腕前に自信を持てないのか。姫は最初難色を示していたが、根負けしてペンを手にした。

 モデルになっているあいだも、マツバさんは平気で姫に話しかけるので、作業は捗らない。ただ、マツバさんがわざとそんな態度をとっているわけではないのは明らかだし、姫もまったく気分を害していない。二人は実に楽しそうに、似顔絵を描き、描かれている。

 姫はガラステーブルに向かってペンを動かし、マツバさんはその対面に座っている。わたしは一人ダイニングテーブルの椅子に腰かけ、二人を見ている。マツバさんは積極的に姫に話しかけ、姫は律義にそれに応じる。わたしはたまに二人に話しかけて、たまにマツバさんが振ってくる話に反応を返す。

 いわばマツバさんに姫を奪われた格好だ。

 わたしは二人に嫉妬していた。二人ばかりずるい、わたしにも構ってほしい、という意味のひとり言を、心の中で何度もつぶやいた。

 しかし、時間が経つにつれて、嫉妬しているのはたしかだが、わたしが考えているような嫉妬ではないのではないか、と思いはじめた。

 すなわち、「姫を奪われたのが悔しい」という説明では成り立たない嫉妬だと。対象はマツバさんではなく、姫なのではないかと。

「あっ、できたの? 見せて、見せて」

 マツバさんは姫の横まで移動し、いっしょになってノートを覗きこむ。顔と顔の距離が近いし、体は密着している。わたしの胸よりも遥かに豊かな膨らみが、小さな体を緩やかに圧迫している。

「――ナツキさん! ナツキさんも見てください!」

 急に呼びかけられて、不覚にも狼狽えてしまった。マツバさんがノートを手にこちらまで来たので、椅子から立ち上がる。

「ほら、これ。私の顔!」

 わたしの横に並んでノートを見せる。描かれていたのは、若い女性だとかろうじて認識できる顔。モデルの特徴を大まかながらも捉えていて、独特の味わいがあるが、技術的にはお世辞にも巧みとは言えない。ようするに、子どもが描いたものとしては平凡な一枚だ。

 だからなのだろうか。わたしは絵ではなく、マツバさんに注意を奪われた。

 嗅ぐたびにささやかな幸福感を運んできてくれる、花の香りの香水。一つ歳が下なだけなのに、格段に瑞々しく感じられる、きめ細かな柔肌。美人という、飾り気もなく面白味もない美称がもっとも的確に思える、端正な横顔。盛んに動くふっくらとした唇、マニキュアに彩られた爪、手首の細さ。

 要素の一つ一つをピックアップしてもそうだし、全体を見ても、魅力的な若い女性だという印象を強く受ける。

 そのマツバさんが、無防備な横顔を見せながら、呼吸し、しゃべっている。体の各部位を任意に、あるいは無意識に動かしている。

 姫やマツバさんといっしょになってイラストを観賞するふりをしながら、わたしはマツバさんに深く沈みこむ。

 そして、気がついた。雷に打たれたような衝撃が体を駆け抜けた。

 わたしは、彼女のことが、彼女のことを――。

「ナツキさん! ナツキさん、大丈夫ですか?」

 呼びかける声に我に返ると、マツバさんがわたしの顔を覗きこんでいた。思わず息を呑み、一歩距離をとって顔を見返す。

「あ、すみません。心ここにあらずっていうか、ちょっとぼーっとしているように見えたから、心配になって」

「ナツキ、お出かけから帰ったあと、ずっとソファでねてた」

 姫はわたしたちのすぐそばまで来て、マツバさんに向かって告げた。

「えっ、ほんとですか。体調が悪い、とかですか」

「ううん、そんなことないよ。なんとなく気持ちが晴れなくて、することもないから、横になってだらだらしていただけで。帰ったあとも姫に、暑さにやられたんじゃないかって心配されたけど、そういうわけでは全然ないから」

「それならいいんですけど。でも、姫ちゃんがお家に来てまだ間もないから、自覚している以上に疲れが溜まっているのかもしれませんね」

 どう答えていいか分からない。マツバさんは真面目くさった顔つきで小さく何度もうなずいている。どうやら自説が正しいと信じきっているらしい。

「お邪魔してもう一時間くらい経つのかな。私、そろそろ帰ったほうがいいですね」

「気をつかってくれなくてもいいのに。体調、本当になんともないから」

「もともと無理矢理押しかけてきたんだし、今日のところは退散します。ナツキさんは姫ちゃんとゆっくり過ごしてください」

 曇りのない笑顔で告げ、てきぱきと帰り支度をはじめた。マツバさんに対する、自覚していた以上の好感に気がついた今となっては、そんなささいな一場面にさえも釘づけになってしまう。

「また来ますから、そのときは今日よりもたくさん遊びましょう。ていうか、今度は二人がうちに遊びに来てください。アポなしでも全然構わないので。紅茶と似顔絵のお返し、必ずしますから。じゃあ姫ちゃん、ばいばーい」

 マツバさんは姫に向かって手を振り、姫は手を振り返し、マツバさんは帰っていった。


 空想の中で、わたしとマツバさんは絡み合った。舞台となったのは、わたしの自宅のリビングのソファだ。

 最初は、仰向けに寝そべるわたしにマツバさんが覆い被さり、わたしの肉体に愛撫していた。それが、いつの間にか上下が逆になったり、わたしがマツバさんに行為を及ぼしたりするなど、体勢が目まぐるしく変化した。一つ一つの場面がこの上なく魅力的で、じっくりと鑑賞しようと意識を集中させようとしたとたん、指先をすり抜けるように、次なる刺激的な場面へと移り変わる。基本的にはそのくり返しだった。マツバさんの顔がわたしの顔になったり、わたしの胸がマツバさんの胸のように大きくなったりするなどという、空想ならではの珍奇な現象も頻発した。

 最初こそ、なるべく現実に近づけようと修正を試みた。しかし、一つは綻びが増えすぎて収拾がつかなくなり、一つは快楽を味わうことに集中したくて、やがて空想に身を委ねた。

 マツバさんのオルガスムスを迎えた顔が区切りとなった。

 水を流し、手にハンドソープをつけて洗う。姫が来てからは一度もしていなかった、と思いながら、タオルで手を拭く。

 キッチンに戻ると、踏み台に上がった姫がボウルの中身を菜箸で混ぜている。

「どう、できた?」

「できた」

 自信満々に中身を見せつけてくる。マカロニを中心に、きゅうり、にんじん、ハム、コーンなどの食材が、マヨネーズをベースにしたソースによって調和している。

「うん、よくできてる。手伝ってくれて助かった。じゃあ、今日はこれでおしまい」

「おさかなは? おさかなをやくのは?」

「火を使うのは危ないから、わたしがやる。お皿を並べるときが来たら呼ぶから、姫はリビングで待ってて」

「はーい」

 手をきちんと洗い、言われた場所へとぱたぱたと駆けていく。

 マヨネーズソースが全体に行き渡っていなかったので、最後の仕上げはわたしの手で行う。自分を慰めた手でボウルを固定し、自分を慰めた手で菜箸を操って。


 猿焼き会場では、人間の死体が映っているかもしれない写真を姫に見せようとするという、母親失格の振る舞いをマツバさんが見せたことに、わたしは優越感を覚えた。

 しかし、矛盾するようだが、その気持ちの中にマツバさんを低く見る気持ちは一切含まれていなかった。今になって思えば、友だちと戯れに行ったちょっとした競争で勝利を収めたから嬉しくなった、といった趣があった。言うなれば、親近感を抱いていたからこそ抱けた優越感だった。

 わたしにとって沢倉マツバという存在は、わたしが考えている以上に大きいらしい。

 この町に引っ越してきた当初、わたしは孤独だった。その状態のまま日々を過ごすことに異論はなく、むしろ望んでいた。引っ越しを決意した理由が理由だったからだ。もともと内向的で、非社交的な性格だったわたしは、世間一般の十代の女子のように、価値観を共有する仲間を、心置きなく交際できる友人を、そう強くは欲していなかった。まったく欲しくなかったわけではないにせよ。

 そんなわたしに、持ち前の人懐っこさを引っ提げて接近してきた人物、それがマツバさんだった。

 奇特な人だ、と最初は思った。わたしなんかのために気を回してくれてありがたい、申しわけない、という思いが湧かなかったと言えば嘘になる。しかし、どちらかと言うと、迷惑だ、静かに暮らさせてほしい、という気持ちのほうが強かった。彼女に悪意がないことも、善良な性格であることも、何回か言葉を交わした時点で把握していた。それでも、静かな暮らしを望んでいたわたしにとって、人怖じしない彼女の積極的なアプローチは少しうるさかった。過干渉だと感じた。

 それでも交流を重ねるうちに、彼女をうとましがる気持ちは着実に減退していった。わたしのマツバさんに対する認識は、「ちょっとうるさい近所の人」から「賑やかで楽しいご近所さん」へと緩やかに移行していった。

 どうやら、それに並行して、より深い、ある意味では生々しい感情が、わたしの中で密かに育まれていたらしい。

 それとも、「賑やかで楽しいご近所さん」という認識にはすでに到達していて、さらにその先、今のわたしには名前をつけることができない称号を目指して、感情が発展している途上だとでもいうのだろうか?


 母親から電話はかかってこなかった。

 短期的に見れば、文句なしに喜ばしい結果だ。しかし、中長期的な観点から見据えた場合、額に汗が滲むのを抑えられない。

 母親は、なにを企んでいるのだろう。

 わたしは、わたしたちは、どうなってしまうのだろう。

 明日は前々から楽しみにしていた「犬祭り。」の日なのに、姫が来てからは最悪といっても過言ではないくらい、寝つきが悪かった。

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