似顔絵(前編)

 姫はベージュ色のラグマットの上に正座し、ガラス製のローテーブルに向かってお絵かきをしている。

 道具はノートと鉛筆。テーブルの中央にはピーチ味のジュースの空き缶が置かれている。中はよくすすいだが、それでもまだ桃の香りがほのかに漂っている。ノートのページを大きく使っての、空き缶のスケッチだ。

 昨日の夕方、リビングのローテーブルの上にいつも出しているメモ用紙とペンを使い、姫が落書きをしているのをわたしは見た。それが頭にあったので、寝室のキャビネットからまっさらなノートを引っ張り出し、「自由に使っていいよ」と告げてローテーブルの上に置いておいた。それを活用して、昼下がりのひとときを有意義に消費しているというわけだ。

 姫が描く空き缶は陰影のつけかたが拙く、立体感に乏しい。ただ、輪郭線は描けば描くほどシャープさを増していて、それに伴って空き缶らしさも増している。缶一本を描ききる速度も次第に上がってきた。

 姫はもう十ページ近くも空き缶を描いている。ノートを見据える顔つきも、ペンを動かす手つきも、一貫して真剣だ。

 わたしは初め、ほほ笑ましい気持ちで制作の様子を見守っていた。しかし今となっては、少々病的な気配を感じている。一つの作業に没頭する――子どもにありがちと言えばありがちなのだろうが。

 気がつけば午後三時半を回っている。

 姫はもう一時間近くも同じ作業を続けている。

 一方のわたしは、帰宅してからずっと、ソファに寝ころんで過ごしている。最初は座って携帯電話をいじっていたが、やがてそれにも飽きた。というよりも、大きいとはいえない画面を見つめながら、必要に応じて指を動かす作業をくり返すのが、ある瞬間を境にたまらなく億劫になった。

 姫は作業に没頭していてこちらには見向きもしない。声をかけて注意を引いたとしても、集中力が持続している現状、わたしの意に叶う行動をとってくれるかは疑問だ。とってくれたとして、絵を描く以上の喜びを姫に提供してあげられるかは、かなり怪しい。

 ……物憂い。

 厳密にはもう少し複雑なようだが、解明し、寸分の狂いもなく当てはまる言葉を探すのも面倒だから、その一言になる。

 その気分が今朝から――いや、昨夜からずっと続いている。姫の言動や、自発的な気持ちの切り替えなどが奏功して、晴れやかな気持ちでいられた時間帯もあったが、すべて一時的なものに過ぎなかった。

 発端は歴然としている。昨夜母親との対話を検討したが、実行に移せなかったことだ。

 それが今朝、スーパーマーケットのベーカリーコーナーで見かけた男児が引き金となり、わたしは逃げるばかりの人生を送っている、という思いが追加された。

 心の危機を実感し、首長竜を見に行く機会を利用してミクリヤ心療内科へと赴いたが、ミクリヤ先生に会うことは叶わず、症状は据え置かれた。

 そして、現在に至る。

 わたしは現状、我が身を侵している物憂さを解消してくれるなにかを欲している。

 というよりも、誰かを。

 ミクリヤ先生には会えなかった。それでは他には、と考えたとき、ぱっと思い浮かぶのは一人しかいない。

 ……ただ。

 その子は今、創作活動に夢中で。作成時に設定した性格や、付き合いの浅さが相俟って、わたしに対しては積極性に欠ける部分があって。この四日間で、心根の優しさは充分に理解できただけに、それがもどかしくて。

 からん、と音が鳴った。

 音源に注目すると、姫がノートを閉じたところだった。ペンは手から離れてテーブルの上にある。口を覆い隠さずにあくびし、ペンをノートの上に置き直したところで、視線が重なった。口元が綻び、白い歯が覗いた。天板を両手で押すようにして立ち上がり、こちらまでやって来る。

「ナツキ、ねむいの?」

 柔らかな表情でわたしを見下ろしながら問う。わたしはそっとほほ笑んで頭を振る。

「あつかったから、つかれちゃた?」

「違うよ。そんなことくらいでは、わたしはダウンしたりしない。大人は体力があるからね」

「でも、ジュースあまりのまなかった」

「飲んだよ」

「ナツキ、うそついてる」

 飲んでいない、飲んだ。疲れている、疲れていない。

 無意味に等しい問答をくり返しているうちに、なにが楽しいのか、姫の笑みはどんどん広がっていく。足並みを揃えるように、わたしの心は少しずつ、少しずつ、負荷から解放されていく。

 やりとりが一段落すると、姫はソファに上がろうとした。わたしの隣に寝そべりたいらしい。ただ、いかんせんスペースが狭すぎる。

「上に乗ればいいよ。わたしの上に」

 自分の胸をぽんぽんと叩くと、姫は言われたとおりにした。さらには、上体を倒してわたしの体にしがみつく。重みは予想を上回っていて、軽く驚いてしまった。家庭用としては高性能なアンドロイドという認識が、人間を手本に作られながらも軽量、という先入観を植えつけていたのかもしれない。五・六歳の子どもとしてはこれが標準の体重なのだろう。

 己の都合のいいように世界を見たがる身勝手さを蔑む気持ちも、予想を裏切られた驚きも、抱いた数秒後をピークに熱量を低下させていく。衣服越しに伝わってくる、姫を構成する肉の柔らかさと温かさの働きによるものだ。生身の人間そのものだ、とつくづく思う。

 思えば、長らく人肌の温もりを味わっていない。姫と軽いスキンシップをとる機会は何回かあったが、それだけだ。

 そして悟った。いや、思い出した。

 わたしが姫に求めていたものは、肉体的なものも含む高密度な交流だったのだ、と。

 わたしの起伏に乏しい胸に埋めていた顔を、姫はおもむろに持ち上げた。今現在の時間の使いかたに快さを感じていることを表明する、飾り気のない無垢なほほ笑み。わたしは目が離せなくなる。

 現状に身を委ね、味わい尽くすのとは別の欲望を抱いていることを、不意に自覚した。

「おいで。もっと近くに」

 姫の顔よりも前で手招きをしなければならなかったので、少し窮屈でどこか滑稽な手の動かしかたになった。姫はこちらの意図を汲んでくれたらしく、イモムシのように体を動かしてわたしの上を這い進む。衣服越しとはいえ、それが主の目的ではないとはいえ、他人の肉体によって肉体を刺激されることで、わたしに備わったあらゆる感覚器官が力強く研ぎ澄まされていく。

 姫の膝が、図らずもジーンズの股間部分をこすり上げた瞬間、熱を帯びた電流が体を縦に駆け抜けた。恥ずかしいような、後ろめたいような。下唇を噛み、なにかがあふれ出しそうになるのを抑えこむ。

 わたしの内心など知る由もない姫の顔が、わたしの顔のほぼ真上に来た。唇にかかるかすかな吐息は、ほのかな甘味を孕んでいる。砂糖菓子のそれとも、牛乳のそれともつかない、名状しがたい甘さだ。その顔に、はにかむようなほほ笑みがたたえられているのは、互いの顔が近すぎるせいだろう。

 姫の顔を見つめているうちに、だんだん変な気分になってきた。至近距離から見つめ合う照れくささに、恥ずかしがっている。それ以外の、それ以上の意味が浮き彫りになっていく。

 己の都合のいいように世界を見る身勝手さがまた顔を出したのだと、わたしは気がついていた。しかし、あえて見て見ぬふりをした。姫にのしかかられているが、この場を支配しているのはわたしだ。半分は自分に言い聞かせるつもりで、そう思う。

 瞬間、わたしは大胆になった。なにも怖くない気がした。欲望に忠実になりたいと思った。ためらいはほとんどなかった。重しを体にのせたまま首を持ち上げなければならないという、若干の肉体的制約があっただけで。

 わたしはまぶたを閉ざし、姫の艶やかな薄桃色の唇に、自らの唇を軽く押し当てた。

 姫の全身が強張りに包まれたのが伝わってくる。しかし、それは驚きと困惑に起因する反射的な変化に過ぎなかったらしく、すぐに緩やかにほどけていく。二つの唇は軽く触れ合っているに過ぎないが、多少息苦しさを感じているらしく、鼻息はいっときよりも荒くなった。心苦しさと、嗜虐的な快感が交錯する。

 前者が勝ったのは、たぶん、姫の親である自覚が心に根づいていたからなのだろう。

 唇をそっと遠ざける。まぶたを開くと、驚きに包まれた姫の顔が真正面にあった。

 右手を後頭部に回して引き寄せる。姫は八割以上自らの意思で顔を密着させてきた。顔と肩が形作るL字に顎をのせる形だ。髪の毛を右手で撫でながら、姫のスカートの裾へと左手を伸ばす。丈は膝までしかないから、本人が警戒心を放棄している現状、いとも容易く侵入を果たせそうだ。

 いいの、ナツキ? そんなことをしたら、彼と同じになってしまう。

 いいのよ、ナツキ。彼は男で、わたしは女。それに、わたしたちは家族なのだから。

 指先に、スカートの生地とは似て非なる感触を覚えた。

 次の瞬間、どこか間の抜けた音が玄関から聞こえた。インターフォンが鳴らされたのだ。

「お客さんだね。……誰だろう」

 姫を抱きしめる腕を右腕一本に減らし、左手で座面を押して上体を起こす。先に姫を床に下ろしてやり、自らも立ち上がる。インターフォンが再び鳴ったので、玄関へ走る。

 急かすように鳴らされた三度目のチャイムが、ドアスコープ越しの確認作業を忘れさせた。四度目が鳴らされる予感に焦燥感を覚えながら、鍵を開けてドアを開くと、

「やっほー」

 にこやかな笑みを浮かべて立っていたのは、沢倉マツバさん。マツバさんらしい、少女らしい華やかさにあふれた普段着に身を包んでいる。右手に提げた袋の口から、甘い香りがほのかに漏れ出している。

「ほんとうに来ちゃいました。ケーキを買ってきたから、姫ちゃんと三人でいっしょに食べましょう」

「びっくりした。昨日約束したばかりなのに」

「迷惑、でしたか」

 眉尻を下げ、小動物を思わせる潤んだ瞳で見つめてくる。わたしは慌てて頭を振り、

「迷惑じゃないよ。全然迷惑なんかじゃない。今日来るなんて考えもしなかったから、驚いただけで」

「ほんとですか? それならよかったです!」

 マツバさんは早くも笑顔を取り戻している。声にも陰りは一切なかった。切り替えの早さは彼女の美点の一つだし、笑っている顔のほうがずっと似合っている。

「ケーキ、ありがとう。ごめんね、わざわざ姫のために」

「ううん、いいの。私も食べたかったから。――ところで」

 背伸びをし、わたしの肩越しに廊下の奥を見やる。

「姫ちゃんは? お昼寝タイムですか?」

「んー、まあ、似たようなものかな。でも、今は起きているから。散らかっているけど、どうぞ上がって」

「おじゃましまーす」

 リビングのドアを開けると、姫はソファに座っていた。テーブルの上の空き缶とノートとペンは、わたしとマツバさんが玄関で話をしているあいだに片づけたらしく、消えていた。

「姫ちゃん、こんにちは! 昨日も会ったけど、久しぶり! 元気だった?」

「マツバ、こんにちは」

「え……!」

 マツバさんは双眸を丸くした。半開きになった口を両手で覆い隠し、わたしと姫を素早く交互に見る。

「猿焼きのときは全然しゃべってくれなかった姫ちゃんが、ちゃんと私にあいさつを……!」

 大げさなリアクションに、わたしは苦笑を漏らしてしまう。三人で猿焼きの会場を回ったとき、姫はたしかに口数はそう多くはなかったが、マツバさんの問いかけにはきちんと答えていたし、自分から質問をしてもいたのに。

「いい! 年下の子に呼び捨てされるの、凄くいい! ああっ、いとしさを抑えられない……!」

 ケーキの袋をダイニングテーブルに静かに置き、一転、素早くソファへと移動する。姫の隣に座ったかと思うと、いきなり抱きしめた。さらには、幼子が母親に甘えるように頬擦りをする。姫のピンク色の髪の毛、マツバさんの栗色の髪の毛、両方が柔らかく揺れる。

「姫ちゃんのほっぺた、柔らかいね。うん、人間の柔らかさ。姫人形だけど人間だね、姫ちゃんは」

 頬を擦りつけるのはやめても、巻きつけた両腕は離さない。華奢な体を拘束する二本の腕は、強くも優しい。輪郭線が少し歪む程度に頬を頬に密着させ、まぶたを閉じている。『幸福』というお題に顔真似で答えてみせたような、そんな表情だ。

 姫は呆然と抱きしめられるままになっていたが、やがて自らの膝の上に置いていた両手を、遠慮がちながらもマツバさんの腰に添えた。

 同じような行為であれば、さっきわたしもした。ただ、マツバさんはわたしよりもうんと積極的で、ためらいというものがまったくなくて。換言すれば強引、相手の意思を無視しているということなのだが、姫はまったく嫌がっていなくて。

「――紅茶、淹れるね」

 込み上げてくる感情に蓋をして、わたしは準備に取りかかる。

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