ピーチジュース

 空を覆う雲の割合は少なく、日射しが強い。

 物憂さに苛まれながらも、半ば機械的に足を動かしつづけているうちに、レンガ造りの橋に差しかかった。

 姫が来た日に同じ橋を通った過去が、遠い日の出来事のように思える。

 あの日は、週に一回のミクリヤ先生に会える日だった。

 わたしたちは橋の中央で足を止め、欄干越しに川を覗きこむ。姫の身長では、顔を出すには背伸びをしなければならない。瞳が右に左に、奥に手前に盛んに動いている。なにかを探しているのだ。

 抱き上げて、なにものにも遮られない高さから見せてあげようかとも思ったが、実行には移さない。誤って姫を取り落としてしまうのが怖かったからだ。つまり、おとといのショッピングモールへ向かう道中と理由は同じ。

 姫のためというよりも、自分のためなのだろうか? 姫が落ちるとかわいそうだから、ではなくて、姫がかわいそうな目に遭うと自分がかわいそうだから。

 わたしは、自分勝手な人間、なのだろうか。

 空はこんなにも晴れているというのに、ありとあらゆる事象が、想念が、わたしを物憂くさせる。

「姫、生き物を探してるの? なにかいた?」

「いないよ。なにもいない」

 そう答えながらも、視線の方向は川のままだ。横顔は真剣そのもので、探しつづけていればいつか見つかると信じているかのようだ。

「首長竜は大きいから、水中に潜んでいたらすぐに分かるよ。橋の上から見つからないということは、このあたりにはいないんじゃないかな」

「……なんだ。いないんだ」

 欄干から体を離してわたしに向き直る。労わるように、慰めるように、頭を軽く撫でてやると、シャンプーが淡く香った。愛撫の意味を求めるように、見開いた瞳でわたしの顔を見つめる。

「現れるのを待つのは退屈だし、川に沿って歩こうか。さあ、行こう」

 立ち上がり、橋を渡りきる。右か、左か。一瞬の逡巡を挟んで、わたしは前者を選択する。その方向へ進めば、ミクリヤ心療内科がある。

 正午を回ると日射しはいっそう強くなった。天気予報を見れば、「初夏を思わせる陽気」という表現を見つけられたかもしれない。川に注目しながら進む姫に合わせて、急がない足取りで歩いているせいか、余計に暑く感じられる。

「暑いね、姫。まだ四月なのにね」

「うん、あつい。くびながりゅう、あついのへいきかな」

「うーん、どうだろう。水辺で暮らす生き物だから、そんなに強くないイメージがあるね」

「じゃあ、きょうはあえないのかな?」

「苦手かもしれないけど、暑かろうが寒かろうが住まいは川だから、根気強く探せば可能性はあるんじゃないかな。水に浸かっている首長竜よりも、陸を歩いている人間のほうがむしろ危ないかもしれない。自販機を見かけたら、飲み物を買って水分補給をしなくちゃね」

 ミクリヤ心療内科の駐車場の脇に、たしか飲料の自動販売機が置かれていたはずだ。歩く遅さを考慮しても、あと十分ほどで到着する。

「姫が来た日も、わたしはこの道を通ったんだよ」

「そうなんだ。なんで?」

「ずっと心の調子が悪いから、心療内科に診てもらいに行ったんだ。心療内科って、分かるかな。簡単に言うと、心のお医者さんなんだけど」

「心のおいしゃさん……」

 瞳の奥に潜むものを見定めようとするかのように、ピンク色の瞳を少し大きくして見つめてくる。首長竜を探していたときと通じるものがある目だ。

「どんなふうに悪いかというとね、未来がとても不安なんだ。正確には、不安に感じることが頻繁にある、ということになるのかな。未来のことは誰にも分からないから、誰でも多少は不安なものだけど、わたしの場合、普通の人であれば不安に感じないようなことも不安に感じてしまって。普通とは違うんだから病気なのかなと思って、毎週一回、心のお医者さんのところに行っているんだけど。……説明、分かりにくい?」

 姫はこれという反応を示さない。なんと言葉を返せばいいかが分からないのではなく、わたしの言っていることが呑みこめていないらしい。

 持病を抱えている世間の親は、自らの病気を我が子にどう説明しているのだろう? 実際に自分でやってみて分かったが、読解力と語彙が心もとない幼い子どもに、完璧に理解してもらうのは難しい。

「たとえば、そうだな」

 足を止め、道が続く先を左右ともに二回ずつ見やる。アスファルトで舗装された片側一車線の道路を、現在通行している自動車は一台もない。わたしと同じ動作を姫も行ったのを見届けてから、

「さっきからずっと、この道を車は一台も通っていないよね。だからわたしたちは、走ってくる車に轢かれることはないだろうって、安心しきって道を歩いている。本当はいけないことなんだけど、たまにちょっと車道にはみ出したりしてね。だけど、わたしはみんなとは違って、車に轢かれないだろうか、跳ねられないだろうかって、心の中で絶えず心配しながら歩いているんだ。見てのとおり車は通っていないから、事故に遭う可能性は絶対にない。それにもかかわらず、ぶつかってこられるんじゃないか、轢かれるんじゃないかって、不安でいっぱいで。起こる可能性が絶対にない事故を心配するなんて、馬鹿げている。そう頭では分かっているんだけど、不安な気持ちをどうしても消せなくて」

 車の話はあくまでもたとえだ。わたしが不安感を抱えているのはたしかだが、対象は走行する車ではない。五・六歳の少女が噛み砕き、呑みこむのはまず無理だろう。

 姫はぽかんと口を開けている。わたしは苦笑し、歩くように手振りで促して、自らも歩き出そうとする。しかし、袖を掴んで引き留められた。

「ナツキ、いまもこわいの」

「うーん、どうだろう。物凄く怖い、わけではないかな。怖いよ、不安だよって姫に打ち明けたことで、少し楽になれたんだと思う。わたしの話を聞いて、姫は怖くなったり不安になったりした?」

「ううん、ぜんぜん。だって、くるま来てないもん」

「……そうだね」

 だけど、いつかは来る。それは、いつか必ずわたしのもとに訪れる。だから、わたしはその瞬間を恐れている。

 避けられないなら、いっそのこと、こちらからぶつかっていくのも手ではあるだろう。

 ただ、現状、その勇気はない。

 その理由を姫に一から説明するとなると、かなり長くなる。設定年齢五・六歳では、単純にその長さに耐えられないだろう。

 姫には共感してもらえない。仕方ないことだ。それは分かっている。

 しかし、その仕方ないことが、今日ほど寂しく感じられる日はない。

 黙々と足を動かしているうちに、ミクリヤ心療内科のクリーム色の外壁が見えた。本日も営業中だ。記憶していたとおり、駐車場の脇に飲料の自動販売機が設置されている。

「一本を半分分けにしようか。好きなものを選んでいいよ」

 姫はピーチ味のジュースを選んだ。水滴をまとった桃のイラストがプリントされた、桃色の缶がわたしに手渡される。代金を負担した見返りに、先に飲む権利を譲ってくれたらしい。

 木陰まで移動してプルタブを開ける。一口飲んだが、甘すぎてかえって喉が渇きそうだ。どうしてわたしは甘いオレンジジュースが好きなのだろうと、数秒のあいだではあるが本気で疑問に思った。

 半分分けの約束が反故にされるのではと懸念しているらしく、姫は気がかりそうにわたしの口元を凝視している。もう一口だけ飲み、返却する。姫は缶を両手で包むように持ち、一口一口大事そうに飲む。

 わたしは心療内科の出入り口に目を移す。わたしたちがこの場所に到着して以来、人の出入りはない。

 理知的で、清潔感を漂わせた、美貌のミクリヤ先生が自動ドアを潜る場面を思い描こうと試みる。思いを馳せる機会が最も多い異性なのに、なぜだろう、鮮明なイメージを描けない。

 現在は午後二時過ぎ。一般的な昼休憩の時間は過ぎているから、ミクリヤ先生が建物の外に出てくる可能性は低いだろう。

 そう理解しながらも、わたしはミクリヤ先生の出現を待望している。姫が飲み終わるまでの時間を利用して待っているのではなく、その目的のためにジュースを与えて姫を待たせているのだ、という気がしてくる。

「ごちそうさま」

 姫の声がわたしを現実へと引き戻した。

 缶を受けとって振ってみると、間違いなく空だ。周囲にごみ箱は見当たらない。仕方なく、缶を手に道を引き返す。

 復路でも、姫は川へと熱心に目を注いだ。ジュースを飲んでいるあいだ、わたしがミクリヤ心療内科の自動ドアばかり見ていたように、わたしには見向きもせずに。

 ごみを川に捨てれば注目してくれるだろうか?

 心の中で思っただけで、空き缶は家まで持ち帰った。

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