四日目

ベーカリー

 すんなりと寝つけなかったわりには、寝覚めは悪くなかった。

 母親との対話の件は、とりあえず保留にしよう。

 考えても、考えても、結論が導き出せなかったのが嘘のように、早々と方針を決定していた。

 逃げなのかもしれない。でも、現時点ではこれがベストな選択のはずだ。

 着替えようと立ち上がったところで、物音に反応したらしく、姫も目を覚ました。

 姫は睡眠と覚醒の切り替えが早い。目覚めて最初のあくびをしたと思ったら、次の瞬間にはさっぱりした表情になっている。どこかの誰かのように、いつまでも敷き布団と掛け布団のあいだに体を横たえ、寝ぼけ眼で虚空を見つめたりはしない。起床を促す役割を演じられないのは残念だ、という気は少しする。

「おはよう、姫」

「ナツキ、おはよう」

 ひと足先に自らの着替えを済ませ、姫の着替えを少し手伝う。こうして、わたしと姫がともに過ごす四日目が始まる。

 朝食はブルーベリージャムを塗った薄切りトーストに、ちぎった葉野菜と薄くスライスしたタマネギをドレッシングで和えたサラダを添え、飲み物はもちろんオレンジジュース。食べながら、今日一日の予定について話し合う。

「食料も少なくなってきたし、とりあえずスーパーマーケットで買い物かな。面倒なことは午前中に済ませておきたいし。首長竜を見に行くのはそのあと、昼ごはんを食べてからだね。姫が来てから外出続きだし、午後は家でゆっくりしようか。明日は『犬祭り。』があるし、体を休める意味でも」

 首長竜を見る機会さえ作ってくれるのであればあとはご自由に、という反応を姫が示したので、話は速やかにまとまった。


 午前十時十分。開店して間もないということもあり、スーパーマーケットの店内に客はそれほど多くない。

「欲しいものがあったら、遠慮なくかごに入れてね」

 プラスチック製の買い物かごを手に、順路に沿って歩く。メモはしてきていないが、買う商品はおおむね決めてある。姫の希望により追加される可能性、わたし自身が気まぐれから脳内メモを書き換える可能性、どちらもあるだろう。

 野菜をひととおり買い揃え、鮮魚コーナーでサーモンの切り身が二切れ入ったパックをかごに入れる。大きさも色も形の様々な魚たちを、興味深そうに眺めている姫を促し、通路を先へと進む。

 食事作りが億劫なときのために、インスタント食品を常備するようにしているが、買い足すのは控えた。姫が楽しく水やりできるように、プラスチック製のじょうろを新調する。愛飲しているオレンジジュースを忘れずに買う。菓子コーナーを通るさいに姫の歩調は緩んだが、なにもねだらなかった。わたしはこっそりとハート型のホワイトチョコレートをかごに入れた。

 締め括りに、朝食用のパンを買うためにベーカリーコーナーに立ち寄る。商品は剥き出しのまま陳列されていて、客が自らトングでビニール袋に入れる。専用のレジではなく、他の商品と同じレジで精算するルールだ。

「姫、どうぞ。好きなのを選んでいいよ」

 所定の場所に置かれたトレイとトングをとり、姫に手渡す。

「ひとつだけ?」

「一人で二個までにしておこうか。すぐに腐るものじゃないけど、早めに食べたほうが美味しいから」

 姫は大きくうなずき、商品を吟味しはじめた。その眼差しは真剣で、今回も選ぶのに時間がかかりそうだ。

 売り場と通路のちょうど境界線上に、男児が佇んでいるのが目に留まった。ベーカリーコーナーの出入り口は二か所あり、彼が位置しているのは、わたしたちが潜ったほうではない出入り口だ。

 年齢は姫よりも少し上だろうか。目の前の棚に陳列された揚げパンを見つめ、気怠そうに振り返って通路の様子を確認し、また揚げパンを凝視する。それをどこか機械的に反復している。

 思い出した。

 子どものころ、近所に店を構えていたベーカリーで、今わたしの目の前にいる男児と同い年くらいの男児が、犯罪行為を働いた瞬間を目撃したことがある。

 問題の店は、当時のわたしの自宅から徒歩五分、高等専門学校の真正面に建っていた。店名は覚えていない。その店には、母親といっしょに何回か買い物に行ったことがある。風変りな商品で客の気を惹くのではなく、定番の商品を安価に提供し、地域の人々に手堅く愛された店だった。

 わたしが小学校に入学する前年にその事件は起きた。

 母親はトレイを手に、円形に設置されたテーブルを回っていた。その後ろに付き従うわたしは、チョココロネの売り場の前に男子が佇んでいるのを認めた。

 一目見た瞬間、変だな、と思った。就学前と思しき年ごろの子どもにもかかわらず、一人で店にいたからではない。当時はもちろん、大人になった今でも的確な表現が見つからないのだが、まとっている雰囲気がどこか普通ではなかった。

 店内にはわたしと母親の他に二組の客がいたが、母親も含めて、誰もその男児の異様さには気がついていないらしい。

 唯一気がついていたわたしは、さり気なく彼の動向を注視した。そう、あくまでもさり気なく。臆病ゆえに争いを好まないわたしは、自らを庇護してくれる存在がそばにいるとはいえ、彼から因縁をつけられるのを恐れたのだ。

 監視を開始して早々に男児が起こした行動に、わたしは絶句させられた。チョココロネの穴に人差し指を深々と挿入し、引き抜いたそれの先端をしゃぶったのだ。一連の行動をとっているあいだ、男児はずっと空とぼけたような顔をしていた。

 犯行後に男児がどのような行動をとったのかは、まったく覚えていない。犯行の発覚を避けるために、ただちに店を出た? 店内で騒動が勃発した記憶は残っていないから、たぶんそうだったのだろう。

 そのベーカリーは一年後、わたしが小学校一年生の春に、貼り紙も出さずに閉店してしまった。

 彼は何者だったのだろう? 店が潰れたのは、彼の盗み食いが原因だったのだろうか? だとすれば、犯行を目撃したが誰にも告げなかった、わたしにも責任はあるのでは?

 当時を思い出すたびに悶々としたが、やがて忘れた。しかし、ベーカリーコーナーの入口に佇む男児がきっかけで、思い出した。

 あのとき、わたしは逃げた。悪から。自らに不都合な現実から。母親に報告する義務から。

 男児はずっと同じ場所に佇み、ずっと揚げパンの棚を凝視している。

 迷子の可能性。万引き犯の可能性。本人にひと声かけるか、店員に知らせるかするべきなのだろうが、どちらの行動を起こす気にもなれない。仮に男児が、あのときの男児のように堂々と盗み食いをしたとしても、わたしは彼を罰する、あるいは罰せられることに繋がる対応はとらないだろう。犯行の模様を姫に見せたくなくて、商品選びを早々に切り上げさせてこの場から去る、という行動であればとるかもしれないが。

 昨夜のことが思い出される。母親との力関係に微妙な変化が生じたのを悟り、母親と話し合う機会を持とうとしたが、けっきょく実行には移さなかった一件のことが。

 わたしは逃げている。

 過去も。そして、現在も。

 ……この調子であれば、未来も。

 逃げるばかりがわたしの人生、なのだろうか。

「ナツキ」

 声に我に返る。姫がトレイを手に目の前に立っていた。その上にのっているのは、ホイップクリームが中に入ったロールパンと、キャラメル味の蒸しパン。

 わたしのぶんを選ぶのを代行してもらおうか、とも考えたが、なるべく早くこの場から去りたい。近くの棚に陳列してあった適当なパンを二つ、ビニール袋に押しこみ、コーナーをあとにした。


 園芸店で、姫が中年男から痴漢行為を受けそうになったとき、わたしは敢然として姫を守るための行動をとった。

 ベーカリーコーナーの男児と関わり合うのは避けたが、たとえば彼が姫にちょっかいをかけるなどしたなら、わたしは断固として彼の前に立ちふさがったはずだ。

 わたしは逃げるばかりが能ではない――と言いたいところだが、あくまでも自分自身に害が及ぶ危険性がなければの話だ、という気もする。

 スカートの中に手を入れようとしていたのが、たとえば屈強な体格の若い男性の集団だったとしたら、身を挺して姫を守れていただろうか?

 もう一人のわたしからの問いかけに、わたしは首を横にも縦にも振らなかった。

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