大鳥

「ナツキといっしょにおふろに入りたい」

 入浴の準備にとりかかろうとリビングを出ようとしたとき、いつものようにソファでテレビを観ていた姫がそんな言葉をかけてきた。

 まったく予想外の発言に、ドアノブに指をかけたポーズで硬直してしまった。沈黙が降りたことで、テレビからの音声が相対的に主張を強め、料理番組が放映されているのだと知る。食材を炒める音が妙に大きく、解説の女性の低い声が埋没している。

 初日に入浴を辞退して以来、姫は風呂に入らないものなのだと思いこんでいた。だから昨夜は、入浴をすすめる言葉はかけなかった。姫自身も特に不満はなさそうだったので、思念は硬度を増し、わたしの中では不動の認識となっていた。

 驚いた理由はそれだけではない。わたしが提示した選択肢の中からなにかを選ぶとか、わたしの発言に疑問点があったから質問する、といったことはこれまでにもあった。しかし自分から、しかも会話の流れとは無関係な要望を伝えてきたのは、これが初めてだ。

「分かった。じゃあ、いっしょに入ろうか」

 わたしの返答に、姫は小さな花を思わせるほほ笑みを灯した。最初は機械のようなぎこちなさも感じられた感情表現も、時間が経つにつれて、年齢相応の子どもらしい、自然なものへと変化してきている。

 湯を張っているあいだは、いっしょに料理番組を観た。パプリカを使ったチンジャオロースがメインの献立が完成するのと、湯が張り終わったのは、奇しくもほぼ同時だった。

 脱衣所のドアを閉め、姫の脱衣を手伝う。最初は自分でも脱いでいたが、二人がかりだとかえって作業が滞るので、やがてわたしに委ねた。一糸まとわぬ姿になった姫の体は、設定年齢相応の姿形をしている。ねじ穴や素材の継ぎ目などは、当たり前だが一つも視認できない。

 わたしが脱ぎはじめると、手伝おうと姫が手を伸ばしてきたが、頭を振って自分の手だけで裸になる。

 姫はわたしの体の、異性が見れば性的興奮を覚えるに違いない部位を、幼児らしい無遠慮さで凝視している。人間の裸を見るのは初めてだから、物珍しいのかもしれない。動植物に対する好奇心の高さは知っているが、少々居心地が悪い。

「さあ、入ろう。どういうふうに体を洗えばいいのか、手取り足取り教えてあげる」

 姫を促して洗い場に入る。

 手本を見せ、姫にかけ湯をさせる。耐水性が備わっているのは分かっているが、体が機械でできているという認識のせいで、湯を浴びる姿を見るのは気持ちが落ち着かない。バスタブに浸かっている光景も右に同じだ。

「姫、どう? 気持ちいい?」

「うん。なんていうか、すごくおちつく」

 姫は目を細めている。発言に偽りなし、といった表情だ。テンション高くはしゃぎ、湯面を指や手で弾いて水飛沫をわたしにかけてくる、ということもなく、静かに湯に浸かっている。

「ナツキはどう? おちつく? きもちいい?」

「うん。気持ちいいし、落ち着く。姫といっしょだから、いつもよりも気持ちいいし、落ち着くよ」

「だれかといっしょだと、ひとりで入るよりもきもちいいの?」

「うん。親しい人とじゃないと、恥ずかしくて、いっしょに入浴なんてできないからね。気持ちよくなるのは当たり前だよ」

「ナツキは、ぼく以外のだれかとおふろに入ったことはあるの?」

「うん、あるよ」

「だれと?」

 顔を食い入るように見つめてくる。パステルピンクの瞳には深い関心がたたえられている。答えをはぐらかしたとしても絶対に納得しない、そんな顔つきだ。

 さて、どうしよう。

 わたしが入浴をともにしたことがある人間は、母親ただ一人。父親はわたしにとって悪い人ではなかったが、面白味のない仕事人間で、子育てや家事には積極的に関与しなかった。なおかつ、母親にとっては悪い夫だったらしい。わたしが七歳のときに両親は離婚し、父親は家を出て行ったから、父と娘が触れ合う機会は早々に消滅してしまった。

 定期的に入浴をともにしていた当時、わたしと母親――お母さんとの仲は良好だった。しかし、今現在、わたしは母親を憎んでいる。

 思い出話を語るか。それとも、やめておくか。

 かなり迷ったが、期待感に爛々と輝く姫の瞳が決め手となった。

「それじゃあ、昔話をしようかな。わたしが五歳か六歳のころ――」

 突然、甲高い声が聞こえた。遠い場所で発生したが、甲高さとボリュームゆえにわたしたちがいる場所まで届いた、といったような。

 姫は全身を緊張させて外の気配を窺っている。わたしも耳を澄ませる。

 あの声は、まさか。

 再び、先ほどと同じ声が聞こえた。文字に起こしたならば、ぐぎゃああああっ、という声。間違いない。

「大鳥だ。どうして急に……」

 不測の事態ではあったが、わたしは最低限の冷静さを保てている。とにもかくにも、姫を落ち着かせなければ。

 振り向いた瞬間、姫は立ち上がった。唇を引き結び、異様なまでに真剣な横顔を見せている。水音が立ち、片足がバスタブから出た。

「姫っ!」

 もう一方の足も出し、バスタブから全身が出たところで、右手首を掴んだ。引き留めるだけのつもりだったのだが、行かせたくない気持ちが無意識に作用したらしく、軽く引っ張る形になる。強い力ではなかったが、姫は小柄で華奢だし、床は滑りやすい。あえなくその場に尻もちをついた。

「姫!」

 手を離し、素早くバスタブから出る。しゃがんで顔を覗きこむと、顔を背けて立ち上がろうとする。

「姫、落ち着いて」

 両腕を腰に回して抱き留める。姫の肉体は、大人とは比べものにならないくらいに柔らかい。強い力を加えると粉々に砕けてしまいそうな脆さも感じる。

 姫は弱い力で抵抗するだけで、強引に振りほどこうとはしない。むっとした顔がこちらを向いた。わたしは穏やかな表情でそれを受け止め、

「どうしたの? 大鳥が怖いの?」

「ちがうよ。はんたい。ぼく、おおとりを見てみたい」

「入浴中なのに、出て行っちゃだめだよ。裸で外に飛び出すつもりだったでしょ」

「ちがうもん。ちゃんと服着るもん」

「着るとしても、駄目」

「なんで? おおとりって、人間は食べないんでしょ」

「そうだよ。でも、駄目。どうしてかって言うと、姫にもしものことがあるといけないから」

「もしものこと?」

「そう。急な出来事に急な対応をとったら、予期せぬ事態が起きるかもしれないでしょ。大鳥は姫には危害を加えないだろうけど、慌てたせいで、姫は転んで怪我をするかもしれない。だから、入浴を打ち切ってまで大鳥を見に行くのはやめよう。ゆっくりお湯に浸かって、きれいに体を洗って、ちゃんと体を拭いてきちんとパジャマを着て、それでも大鳥が鳴いているようだったら外へ行ってみる。そうしない?」

 十秒を超える長いインターバルを挟んで、小さいがはっきりとした声で「わかった」と答えた。どことなく不服そうだが、心の底では諦めてもいるような、複雑な表情を見せている。言い分に納得したわけではないが、意地悪をする目的で引き留めたわけではないと理解してくれたらしい。

「体を洗ってあげるから、機嫌を直して。お風呂に浸かっているときと同じくらい気持ちいいよ」

 風呂椅子に座らせ、石鹸でタオルを泡立て、体を洗いはじめる。姫はどうやら、くすぐったがりの気があるらしい。大げさに身をよじらせる姿に、わたしはついつい笑みをこぼしてしまう。気を悪くするかもしれないと懸念しながらも、かすかな笑い声が断続的に漏れるのを抑えこめない。

 一方で、上機嫌の原因を冷静に理解してもいる。

 無意識に姫のことを考えた行動をとったからだ。換言するならば、母親らしい行動を。

 無意識に。

 それはすなわち、母親としての資質が備わっているということだ。「自分は姫の母親だ」という意識が体に染みついているということだ。母親として合格点に達しているということだ。

 姫の体の石鹸をシャワーで洗い流しながら、顔がにやけるのを自制できない。

 わたしならやっていける。

 姫と二人で、ずっと、ずっと。


 体を洗っているあいだも、再び湯に浸かっているあいだも、甲高い鳴き声は聞こえてこなかった。欲求はすっかり萎んでしまったらしく、姫は大鳥に言及しなくなった。

 寝間着に着替え終わり、二人ぶんのオレンジジュースを淹れる。姫はなみなみと注がれた液体に口をつけて少し減らしてから、グラスを手にリビングのソファに座る。わたしはダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、テーブルにグラスを置いて携帯電話を手にとる。快い気分が続いたのは、画面を明転させるまでだった。

 入浴中に母親から電話があったようだ。件数は一件。コールは四十一秒間続いていた。

 着信回数も、コールの長さも、偏執的な母親にしては淡泊だ。淡泊すぎるといっても過言ではない。

 おとといの出来事が影響を及ぼしたのだ。

 そうとしか考えられない。

「ふれあい会」の当選メールを確認した直後にかかってきた電話に水を差され、その怒りに任せてわたしが一方的に罵倒したあの一件が、母親の心になんらかの感情なり想念なりを植えつけたのだ。

 恐怖? それとも嫌悪感? とにかく、これまでのように、比較的気軽に連絡するのをためらわせるなにかを。

 昨日、電話を一度もかけてこなかった事実を考え合わせれば、間違いない。

 わたしと母親の力関係が変化しつつあるのだ。

 劇的に、ではないにせよ。

 姫はテレビを観ながらオレンジジュースを飲んでいる。音量を大きくしすぎることも、視聴に関心を奪われてグラスの中身をおろそかにすることもない。どちらの行為に対しても、わたしが一度注意したことがあり、以降は同じ過ちを犯していない。姫は聞き分けがよく、学習能力がある子なのだ。

 わたしも、わたしがやるべきことをやらなければ、という気分になってくる。

 こちらから母親に電話をかけてみようか?

 強い気持ちで母親と対話に臨めば、あるいは。

 着信履歴を開いて母親の電話番号を画面に表示した。そこまではよかった。

 しかし、わたしの人差し指は、通話に必要となる最後のボタンを押せない。

 いつの間にか鼓動が速まっている。緊張しているのだ。タップするか、やめておくか。二つに一つを決められずに宙吊りにされた人差し指は、かすかに震えている。男性かも女性かも、老人かも若者かも分からない声が、テレビの中からわたしを嘲笑った。

 姫はいつものようにテレビ画面に釘づけで、わたしには見向きもしない。その事実に、急に心細くなってきた。

 ――やめておこう。

 心の中で呟き、携帯電話の画面を暗転させる。

 距離を置こう。大鳥と同じだ。確実で明らかなメリットが期待できない存在に、わざわざこちらからコンタクトをとる理由はない。

 自分に言い聞かされた自分は、どうやら呆気なく納得したらしい。

 しかし、心の片隅に納得しきれない部分をわずかながらも残す、灰色の納得だった。


 夜のしじまはどこまでも深く、大鳥が鳴いたとしても吸いこまれてしまいそうだ。

 園芸店、猿焼きの会場、バスルーム。それらの場所での自分自身の振る舞いを振り返って、母親らしい行動をとったと自画自賛したが、母親らしく振る舞う自分に酔っていただけなのかもしれない。

 わたしは今夜、わたしの人生を議題に、母親と対話する勇気を持てなかった。

『自らの母親を克服できない人間が、果たして、母親としてやっていけるの?』

 いじわるなもう一人のわたしが、わたしに問いかける。

 わたしは隣で眠る姫を一瞥し、自答する。

「克服してみせる。今日までの三日間で分かった。わたしは母親としての資質を持ち合わせている。だからあとは、自分の母親を乗り越えるだけ。乗り越えて、わたしは、完璧な母親になる」

 言葉を切ったとたん、疲労感とも眠気ともつかないものが体にのしかかってきた。まぶたを閉ざし、眠ることにした。

 先のことは、今は考えたくなかった。

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