猿焼き(後編)
「あっ、ギャラリー」
会話の流れをまったく無視したマツバさんの一言に、わたしの思案は断ち切られた。彼女が指差した方向には、広場を囲う金網フェンスに沿って、人の背丈ほどのパネルが何枚も並べられている。
「姫ちゃん、あそこに板がたくさん立ってるでしょ。あれにはね、猿焼きの模様を撮影した写真が掲示されているの。姫ちゃんは猿を焼き終わったあとでここに来たんだよね? だったら、写真を見に行こうよ」
マツバさんは無邪気に提案し、姫はうなずく。今度はわたしに向かって、「もちろん行きますよね?」とばかりに眼差しを注ぐ。断る理由はないので、首を縦に振る。
二人の後ろについてギャラリーへ向かいながら、わたしは胸騒ぎがしていた。
わたしは猿焼きのギャラリーを見学したことがない。しかし、マツバさんが言ったように「猿焼きの模様を撮った」のだから、必然に――。
「あ、これは猿を焼く前に行う儀式だね。この変な恰好の人、神主さんって言うんだけど、猿を焼く前にお祈りをするの。いったんお祈りが始まると、はちゃめちゃに長くて」
最初の一枚を説明し、説明されている二人の背後を通過し、パネルに貼りつけられた写真に写っているものを一枚一枚、素早く確認する。
四枚目のパネルの中盤、ちょうど姫の顔の高さにある一枚を見て、危うく声を上げるところだった。
まずい。これを姫に見せるのはまずい。
なにか方法はないだろうか?
会場を見回して、すぐに良案を閃いた。
「姫。マツバさん」
松明を掲げた男衆の、勇ましい横顔を写した一枚を見ている二人に声をかける。
「熱心に観賞中のところ、ごめん。あんこボールの屋台を見つけたから、買いたいんだけど」
「だって。よかったね、姫ちゃん」
「姫におつかいに行ってもらおうと思うんだけど、いいかな?」
「おつかい……」
「凄く簡単なことだから、姫にもできるよ。ほら、あそこ」
前方右斜め、約二十メートルの場所にある屋台を指差す。
「あそこへ行って、店の人にお金を渡して、『あんこボール一袋ください』って言うだけでいいから。お金は――」
「あ、私が出します」
マツバさんが慌ててハンドバッグから財布を取り出す。断ろうかとも思ったが、無駄なやりとりを挟みたくなかったので、好意に甘んじることにする。マツバさんの手から姫の手へと、三枚の百円硬貨が渡った。
「はい、三百円。これを渡して、『あんこボール一袋ください』。で、店員さんが商品が入った袋を渡してくれたら、『ありがとう』ってお礼を言ってここまで戻ってくる。姫、できるかな?」
「できるよ。ナツキが買いものしてたところ、見たし」
「うん、そうだね。それじゃあ、行っておいで」
優しく肩を叩くと、姫はわたしたちに背を向けて歩き出した。急ぐでももったいぶるでもない足取りだ。マツバさんが大きな声で「がんばって」と声をかけたので、肩越しに振り返ったが、以降は脇目も振らずに進んだ。
「ナツキさん、説明が上手ですね。私だったらだらだらと言葉を重ねちゃいそうだけど、要点を絞って指示を与えていて、さすがです。まるでお母さんみたいでした」
姫の後ろ姿が見えなくなってすぐ、マツバさんは言った。
「姫ちゃん、もしかして、あれが初めてのおつかいだったりします? 保護者の立場としては、どうなんですか? 不安じゃないですか? それとも、かわいい子には旅をさせよ的な――って、なにを見てるんですか」
「あの写真、焼かれた猿のうちの一匹だよね」
マツバさんを促してパネルに歩み寄り、問題の写真を指し示す。
一台の檻が、扉が開かれた状態で地面に置かれている。その中に下半身を、外の地面に上半身を横たえて、黒焦げの物体が横たわっている。焼却の儀が終わり、係の人間が中から猿を引きずり出した直後を切りとった一葉なのだろう。身を焼かれながらも、死に物狂いで扉をこじ開けたものの、力尽きたように見えなくもない。首から下は俯せだが、顔は横を向いている。
「そうですけど、それがどうかしました?」
「質問だけど、マツバさんはいつから会場にいたの? 猿たちが焼かれるところは見た?」
「焼きはじめたばかりのころに来ました。焼く前に、神主さんが長々とお祈りをしますよね。あれが退屈だから、焼きはじめる直前に来ようと思ったんだけど、少し遅れちゃって。広場の中央に到着したときには、猿たちはすでに炎の中で」
「じゃあ、どんな猿が焼かれているのかは確認していない?」
「はい。炎の勢いの具合とかで、姿が分かる猿も何匹かいましたけど。チンパンジーっぽいのと、テナガザルっぽいのは一匹ずつ見ました。それから、リスザルの仲間なのか子どもの猿なのかよく分からない、小さめの猿も」
「そっか。鳴き声はどうだった?」
「焼かれはじめたばかりで、猿たちもまだ死んでいないから、悲鳴は凄かったですよ。毎回思うけど、地獄だなって」
「人間の悲鳴は?」
「人間? 叫んでいる人もちらほらいましたよ。たぶん、考えていた以上に残酷な光景だったんだと思います。毎回来ている私はもう慣れっこだけど――」
「違う。見物客じゃなくて、焼かれているほう。焼かれている檻の中から、人間の悲鳴や絶叫は聞こえてこなかった?」
「ないない。ないですよ、人間の声なんて。人間の声に近い声で鳴いている猿ならいた記憶はありますけど、似ているというだけで、猿の鳴き声ではあったと思います。……ていうか」
マツバさんの顔から笑みが消えた。眉根と眉根の間隔が少し狭まる。
「ナツキさん、どうしてそんなことを訊くんですか?」
無言で、再び写真を指差す。マツバさんは、檻から上半身を出した黒焦げの屍骸を改めて凝視し、またわたしに顔を戻す。わたしは言った。
「その屍骸、人間っぽくない?」
マツバさんはまたしても写真に注目した。
屍骸は黒焦げだが、体や顔の輪郭はかろうじて原型を留めている。頭部の形といい、体型といい、猿ではなく人間のようにわたしには見える。
「そう、ですかね。私には猿にしか見えませんけど」
マツバさんはわざとらしいくらいに大きく首を傾げた。
「気にしすぎじゃないですか? 人間かもしれないと思って見ると、そう見えなくはないかな、という気もたしかにしますけど、違うと思いますよ。猿と人間は親戚みたいなものだから、パッと見そっくりなのは当たり前じゃないですか?」
「それはそうだけど……。でも、わたしには猿には見えない」
「だけど、人間の声は聞こえませんでしたよ。仮に焼かれたのが人間であれば、『助けてくれ』とか『出してくれ』とか『熱いよ』とか、そういう言葉を叫んだと思うんですけど、そういう声は全然聞きませんでした。ていうか、人間を檻に入れて焼くとか、ありえませんって」
檻の中から人間の声は聞こえてこなかったそうだが、マツバさんは焼却が始まった当初は現場にはいなかったのだから、聞き逃しただけでは? 猿たちの鳴き声の甲高さにかき消された可能性は? 猿ぐつわをされるなどして、発声を封じられていたのでは?
納得したように小さくうなずいてみせたが、心の中では反論の言葉を並べていた。
では、人間が檻に閉じこめられて焼かれたのだとしたら、なんのために?
「あっ! 姫ちゃんだ」
マツバさんの声に我に返る。あんこボールの屋台のほうを向くと、こちらへと戻ってくる姫の姿が見えた。行きと同じく、急いているわけでも悠長なわけでもない足取り。紙袋を大事そうに胸に抱えている。
「ちゃんと買えたんだ。賢いね! 偉い、偉い!」
マツバさんの右手が姫の頭を撫でる。姫は照れくさそうにマツバさんを見返し、わたしの顔を見る。わたしは「よくできました」と姫を褒め称えた。
姫が無事におつかいを完遂したのは喜ばしいが、黒焦げ写真に対する疑惑は晴れない。仮に屍骸が人間のものだとすれば、そんなものを姫に見せたくない。
「あんこボール、歩きながら食べない?」
わたしの提案は快諾された。
わたしたち三人は横一列になり、屋台に沿って会場を歩きながら、袋からあんこボールをつまんで食べる。袋を持つ係は、真ん中を歩く姫だ。
「んー、美味しい! あつあつのあんこって、なんでこんなに美味しいんですかね? やっぱりあんこボールは最強のスイーツですね!」
マツバさんは小腹が空いていたらしく、積極的に口に運んでいる。周囲の人間を問答無用で笑顔に変えてしまいそうな、満面の笑みだ。甘いものが好きだからか、それとも空腹だったのか、食欲なら姫も負けていない。空腹ではなかったわたしも、「せっかくだから」とマツバさんにすすめられて一つ口にした瞬間、中毒性を孕んだ美味しさの虜になった。
リラックスしたムードの中、わたしはマツバさんに対して優越感を覚えていた。
たしかに、マツバさんは子どもの扱いかたが上手い。お姉さんのように牽引しながらも、基本的には友だちのように接している。それが姫の心を多少強引ながらもしっかりと惹きつけ、広い意味での好意を獲得している。
ただ、母親の視点を持てていない。
だからこそ、姫に猿焼きの写真を見せようとした。子どもに喜んでもらえそうなものは、種類を問わずに積極的に与えよう。そう自分勝手に、なおかつ短絡的に考えて、死体が写っている写真を見せようとした。
『そんなものを見せて、一生癒えないトラウマを植えつける結果になったら、マツバさんはどう責任をとるつもりだったの?』
そう問い質せば、「姫を不幸な目に遭わせようと思ったわけではない」とマツバさんは弁明しただろう。「想像が及ばなかっただけだ」と。
しかし、親や保護者の立場に立つ人間に必要なのは、なによりもその力なのではないか、とわたしには思える。目先の快楽のために子どもを甘やかすのではなく、中長期的な未来も視野に入れて、ときには心を鬼にするべきだ。
猿焼きの写真の場合、姫が積極的に見たがったわけではない。マツバさんは、写真を見ると姫が喜ぶに違いないと独断し、行動に移した。ようするに、広義の想像力はある。しかし、その行為にはどのような危険性が潜んでいるのかという、狭義の想像力が伴わなかったせいで、危うく姫に不幸な体験をさせるところだった。
一方のわたしは、マツバさんが持っていないものを持っていた。だからこそ、悲劇を回避できた。
姫の庇護者に相応しい人材は、マツバさんではなくわたしだ。
優越感、それに伴う喜び、二つの感情がわたしの胸を満たしている。人間かもしれない焼死体の衝撃も、この感情の踏み台に過ぎなかった気がした。心が高ぶるあまり、子どものころに参加した地元の祭りや、食べたことがある屋台の食べ物についてなど、どうでもいいことばかりをしゃべった。
会場の出入口に到着したときには、袋は空になっていた。
袋をごみ箱に捨て、公衆トイレの洗面台で手を洗ったところで解散となった。大学の友だちが来るかもしれないので、マツバさんはもう少し広場に残るという。
「今日は姫のために、いろいろありがとう」
「ううん、平気です。子どもと話をするのは大好きだし、あんこボールは安いですから」
「お礼がしたいから、またいつかわたしの家まで遊びに来て。姫も喜ぶと思うし」
「えっ、ほんとですか? 私、社交辞令も本気にとっちゃいますよ?」
「いいよ、本気にとってくれて。お茶とお茶菓子くらいしか出せないけど」
「充分すぎます! それでは、近いうちにお邪魔させてもらいますね。ナツキさん、姫ちゃん、また今度ね」
マツバさんはわたしたちに向かって手を振る。姫は手を振り返し、わたしは会釈でそれに応えた。
帰り道、わたしたちは猿焼き会場で見聞きしたことについて話した。マツバさんに影響されたらしく、姫は普段よりも饒舌だった。
帰宅すると、姫は真っ先に植木鉢に水をあげた。わたしに命じられたからではなく、自主的に。道具の片づけもちゃんとした。植木鉢を前にしゃがみ、黒い土を見つめる真剣な横顔を見て、これならば大丈夫だと確信した。
夕食を食べたあとはだらだらと時間を消費した。わたしはダイニングテーブルで携帯電話をいじり、姫はリビングのソファでテレビを視聴する。
どうにかならないものか、と思う。テレビすなわち悪だと断罪するつもりは毛頭ないが、暇を潰す手段がそれ一つというのは不健全だ。
姫が楽しめるものを買ってあげなかったことを悔やむ気持ちが、またわたしの胸に浮上した。
この状況、姫はどう思っているのだろう。「これが欲しい」とはっきりと主張してくれれば、その望みを叶えるために行動するのに。
出会ったばかりのころよりも距離は縮まったのはたしかだが、気安く本音を言い合うにはまだ遠い。それが現状なのだろう。
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