二十三世紀

 自宅から駅までと同じくらいの時間を歩き、目的地に到着した。

 周囲を田畑に囲まれた、広く平坦な土地だ。道路に面して白く巨大なイベント用テントが設置され、側面に大きく文字がつづられている。

『野菜、果物、花の苗売ります 二十三世紀』

 現存する人間が絶対に到達できない世紀を示した部分だけ、鮮やかな赤色の太字で強調されている。

 テントの内部は爽やかな青くささに満たされている。簡易な木製のテーブルの上に、植木鉢やポットに入れられた植物が並び、大きなものは地面に直に置かれている。客は総勢十人ほど。規模のわりには少なく感じられるが、平日の午前中だと考えればこんなものかもしれない。

「じっくり選んでいいよ。電車の時間は気にしなくていいからね」

 姫はうなずき、先陣を切って通路を進む。わたしはそれに続く。

 形、名前、色彩、大きさ――実に多種多様な植物が売られている。事前に買う商品を決めていなければ、地球最後の日が来ても買うものを決められなさそうだ。

 子ども服の店でも、ファミリーレストランでも、姫は選ぶのに迷っていた。最終的にはわたしが決断を下すことになるのだとしても、まずは本人に任せよう。きっとそれが保護者に求められる振る舞いのはずだ。


 その男性は、最初なんの印象も残らなかった。頭髪は薄く、丸眼鏡をかけていて、背は高くも低くもない。どこにでも転がっているような、ありふれた中年男性。眼鏡の奥で盛んに動く、なにかを物色するような目も、商品が豊富に取り揃えられたこの場では特異なものではない。だから、初見では特になにも思わなかった。


 姫は植木鉢の一つに注目している。表面に黄緑色の幾何学模様が刻まれた、薄紫色の、刺のないアロエ、とでも形容するべき姿形の植物だ。

 グロテスクとも神秘的ともつかないその一株を、姫は真剣な眼差しで見つめている。顔の高さや角度を変えて眺めたり。無意識に植物に触ろうとして、はっとして手を引っこめたり。なにが琴線に触れたのかは定かではないが、強く興味を惹かれているようだ。

「いいものがないか、ちょっと見てくるね」

 選ぶことに集中してもらおうと、ひと声かけてその場から離れる。こちらを向いてうなずいたので、安心して遠ざかっていく。

「ちょっと見てくる」とは言ったが、わたし自身は植物に興味はない。庭に放置された、植木鉢の亀裂が入った乾いた土が、その事実を端的に示している。ハーブを育てたのも、店でたまたま販売されているのを見かけて、気まぐれに挑戦してみただけだ。一口にハーブといっても数多くの品種があるが、かつて育てていた植物の名前を、もはやわたしは答えることができない。

「いいもの」がないかを見てくる。

 もちろん、姫にとっての「いいもの」なのだが、あの子のお気に召す植物を選ぶ自信は、正直言ってない。この店で販売されている商品は多種多様で、しかも膨大だ。購入するならば、野菜の苗や果物の種ではなく、植物の鉢。分かるのはそれくらいのもので。

 甘いものが好きで、嫌いな食べ物はない。口数は多くなく、景色を眺めるのが好き。この三日間で姫について分かったことは、あまりにも少ない。

「……引き返そう」

 姫がいた場所を体ごと振り返って、わたしを取り巻く時間は停止する。

 二十メートルほど先、わたしが離れる前にいたのと同じ地点に姫は立っていた。その隣に、頭髪が全体的に薄い、丸眼鏡をかけた中年男性が佇んでいる。両者の距離は、二人が赤の他人であることを考えれば、息を呑むほどに近い。

 男性は前屈みになって姫に顔を近づけ、唇を動かす。その横顔は、邪悪に歪んでいる。少し離れた場所から客観的に眺めてみなければ決して見抜けない、そんな邪悪さだ。

 対する姫は、ただでさえ丸い瞳をさらに丸くして、男性の顔を見返している。見知らぬ人間から急に声をかけられて戸惑っているが、発言に耳を傾ける必要性を感じるからそうしている、といった様子だ。

 親子にしては年齢が隔たっているが、二人が家族だと説明しても、大きな違和感を抱く者はまずいないだろう。

 しかし、二人が他人同士だと把握しているわたしは、全神経を傾けて両名を観察した。そして、恐るべき事実に気がついた。

 中年男性の左手が、さり気なく、さり気なく、姫のスカートの裾へと伸びて――。

 地面を蹴る音。最初に響いた音が一番強く、高くというよりも強く、その音は連続する。

 駆け出したのは、わたしだ。

 走り出した瞬間は、三十メートルが三十メートル以上に感じられた。しかし、いざ走り出してみると、二人との距離は見る見る縮まっていく。まるで歩幅が普段の倍になったかのようだ。

 距離を半分に縮めたあたりで、男性がこちらを向いた。痴漢行為を働こうとしていた左手は、虚空で凍てついている。姫は依然として男性の顔を見ているが、もうそろそろわたしのほうを振り向きそうだ。

 あっという間に二人のもとに達した。

 姫がこちらを向いた。男性はわたしを凝視したまま、上体を姫から遠ざけた。丸眼鏡の奥の双眸は、わたしを対象とする恐怖一色に染まっている。

 お前に用はねーよ、ハゲ。

 姫の右手首を掴み、方向転換をして歩き出す。早足と走行の中間、やや早足寄り、といった速度。走ってきた道を引き返すルートだ。

「いたい。ナツキ、いたいよ」

 戸惑ったような声で姫が訴える。手を引っ張られるのが痛いのか、手首を握る力が痛いのか。声は聞こえていたし、哀訴しているのも理解していたが、わたしの両脚はわたしの制御下には置かれていない。ただ、しょせんは早足の範疇だから、姫の歩幅でもなんとかついてこられる。それに、強いといっても、手首に痣をつけるほどではない。

 やがて歩行が止まる。

 わたしは姫の手首から手を解放し、荒い呼吸をくり返す。姫は握られた箇所を無意識のように手でさすりながら、わたしを見上げる。

「ナツキ、きゅうにどうしたの?」

 心底不可解でならない、といったその声は、わたしの息が整ったのを見計らったようなタイミングで投げかけられた。

「逆に訊くけど、わたしがなんで走ったのか、心当たりはある?」

 姫は頭を振った。

 つまり、不届き者から魔手を及ぼされそうになった自覚はない。

 わたしはおそらく、無意識にほほ笑んだのだろう。姫はその変化の意味が解せないらしく、小首を傾げた。

 自分の身に、なにが起きたのか。なにが起ころうとしていたのか。分からないなら、それでいい。そのほうがいい。


 男性から蛮行を及ぼされる寸前の姫を目の当たりにしたとき、幼いころの自身の体験が甦った。

 まだ初潮は迎えていなかったから、小学四年生よりも前だろう。休日、両親に連れられて駅前のデパートを訪れたわたしは、屋上にあるペットショップに来ていた。

 ハムスターだったのか、モルモットだったのか、ハツカネズミだったのか。とにかく小型のげっ歯類を熱心に見物していると、わたしの隣に誰かが立った。髪の毛と服がねずみ色の、幼いわたしの感覚からすればおじいさんという見た目の男性で、にこにこ顔でわたしのことを見ていた。

 わたしと目が合うと、おじさんはげっ歯類のケージへと注目を移した。

 ねずみ色のおじいさんの体からは、動物の糞尿臭とは似て非なる悪臭が漂っていた。今のわたしなら「饐えたような臭い」と表現しただろう。

 ねずみ色のおじいさんや、おじいさんから漂ってくる悪臭よりも、小動物に関心があったわたしは、ケージの中へと視線を戻した。直後、誰かに腕を掴まれた。含まれている水分が少なく、皮のすぐ内側に骨があるような、そんな感触だ。

 掴んだ人物は、ねずみ色のおじいさんだった。彼はにこにことではなく、にたにたと笑っていた。

 嫌だ、と思った。

 そのとき、わたしの周りには誰もいなかった。つまり、わたしが嫌だと思うことをおじいさんがしたとしても、甘んじて受け入れるしかない。そんなのは、困る。

 しかし、どうしようもない。体が動かないし、口をきけないから、逃げることも、助けを呼ぶことも不可能。

 おじいさんがわたしに顔を近づけて、なにか言った。生ごみの臭いがした。

 直後、「ナツキ」とわたしを呼ぶ声がした。

 おじいさんは弾かれたように手を離し、一歩二歩と後ずさりをした。声がしたほうを振り向くと、母親が――お母さんが、ペットショップの戸口に佇んでいた。レジ袋を右手に提げて、緊張感に欠ける顔をこちらに向けている。買い物が終わったから迎えにきたのだ。

 金縛りは解けていた。おそらくは、お母さんの声を聞いた瞬間に。

 わたしはお母さんのもとへと走った。ねずみ色のおじいさんがどう行動したのかは、一顧だにしなかったので分からない。

 当時のわたしは、幼いゆえにおぼろげではあったが、理解していた。女性の本質的な弱さを。男性が内に秘めた獣性を。弱さにつけこんで獣性を満足させる行為は、社会的に許容されないことを。しかし、この世界では、それがいつ発生してもおかしくないことを。

 ただただ怯え、救いを欲するわたしを、お母さんは事情を呑みこめないながらも慰撫してくれた。

 最低限の落ち着きを取り戻すと、わたしはすぐに被害を訴えた。

 具体的になんと説明したのかまでは覚えていない。ただ、語彙と表現力が貧困なりに語彙と表現力を尽くした、という記憶だけは残っている。

 お母さんが――いや、母親がなんと答えたのかは、あの日から十年以上が経った今でも、一言一句違わずに覚えている。

『短いスカートなんか穿いてくるからでしょう。馬鹿ね』

 胸を襲った衝撃は凄まじかった。

 短いスカートを穿くことのどこがいけないの? デパートに出かける前は、お母さん、ひらひらしたスカートかわいいね、ナツキに似合っているねって、にこにこしながら言っていたのに。それに、わたしが触られたの、腕だよ。なんで、短いスカートを穿いたら腕を触られるの。そもそも悪いのは、わたしに変なことをしようとした、あのおじいさんでしょう。なんでわたしが叱られるの。責められるの。

 混乱した想念が怒涛のように胸に押し寄せた。全文を書き起こそうと試みたとしても、マス目を五パーセントも埋められなかっただろう。それほどまでに、到来した想念は混乱していたし、膨大だった。

 ただ、馬鹿呼ばわりされることこそなかったが、似たような出来事ならば散発的に起きていた。

 あのころ、母親はすでに――。


「ナツキ」

 呼びかけられて我に返る。

 姫がわたしの真正面に佇み、わたしを見上げていた。右手の人差し指と親指は、わたしのトップスの袖を掴んでいる。眉尻を下げてわたしの顔を見つめている。わたしのことを心配してくれている。

 抑圧していた過去に向き合い、極度の緊張状態にあった肉体が、心が、急速に緩んでいく。

「ナツキ、だいじょうぶなの? ほんとに?」

「大丈夫だよ。わたしはもう大丈夫」

「そう? それだったら――あっ」

 姫は突然、わたしの斜め後方を指差した。

 指し示されたのは、雛壇のような陳列棚に並べられた、黒い育苗ポット。いずれの土からも芽は出ていない。立て看板にはこんな文言がつづられている。

『どんな植物が生えてくるのかな?

 大きくなるまでのお楽しみ!

 ※返品は受けつけておりません。ご了承ください。』

「へえ、面白いね。なんの芽が出るかは分からないんだって。買いたい植物が決まっていないんだったら、こういうものもいいかもしれない」

 姫は棚を食い入るように見つめていたが、おもむろに顔をわたしに向け、

「これにする。これがいい」

「もっと他の植物を見なくてもいい?」

「うん。これに決めた」

 姫はその場にしゃがみ、最下段、左から四つ目のポットを迷いなく手にとる。その手つきの優しさと、芯に宿るある種の力強さが、彼女の意思を不足なく説明していた。

「それじゃあ、お金を払いに行こうか」

 姫はほほ笑んでうなずいた。自身が抱えているポットからいつか萌え出て、咲き誇る一輪を先取りして表現したかのような、可憐な笑顔だった。


 帰宅するとすぐさま、植物を植木鉢に移植する作業を行った。主に姫が手を動かし、必要に応じてわたしがサポートする形だ。

 移植ごてとじょうろは物置部屋にあった。ハーブを育てていたときに使用したものだ。

 乾いた土を捨て、柔らかい土を庭の地面から調達し、育苗ポットから抜き出した土くれを植木鉢に埋める。姫は全体的にぎこちない手つきながらも、無難にこなした。

 仕上げにじょうろで植木鉢に水をあげ、日当たりのいい場所に置く。水を与えたからといって、すぐに芽が出てくるわけではない。それは姫も分かっているはずだが、植木鉢の前にしゃがみ、湿った土から視線を外そうとしない。

「さあ、もう家の中に入ろう」

「……うん」

 何回か呼びかけると、渋々といった様子で立ち上がった。後ろ髪を引かれる思いに負けてしまわないように、姫の手を引いて庭をあとにする。一鉢の植物を移植しただけにしては泥がつきすぎているようで、子どもらしい不器用さと熱心さがほほ笑ましかった。

「め、いつ出るのかな?」

「ちゃんと世話をし続けていたら、いつかきっと出てくるよ。水やり、毎日できる?」

「うん。ぜったいできる」

「道具の片づけも忘れないでね」

「うん。わすれない」

 じょうろを新調しよう。今家にあるものは、大きすぎて重いし、見た目がかわいくない。道具一つでやる気が持続するのであれば、安いものだ。移植ごては当分使う機会がないだろうから、買い換えるのはひとまずじょうろだけ。今日の午後は猿焼きに、明後日は「犬祭り。」に行くから、買い物は明日にしよう。買い置きの食料が尽きるころだから、ちょうどいい。

 こうやって、スケジュール帳の空欄はひとりでに埋まっていく。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る