三日目

何事も経験

 何事も経験なので、園芸店には電車で行くことにした。徒歩、電車、徒歩。徒歩オンリーよりも時間はかかるが、歩く時間を三分の二程度にまで短縮できる。

 駅には十分ほどで着いた。しかしあいにく、目的駅行きの電車は発ったばかりだ。この町は田舎だから、今の時間帯は一時間に一便しか発着しない。

 一時間弱のあいだ、プラットホームのベンチにずっと腰かけて待つのは、退屈だし味気ない。だからといって、いったん自宅に引き返すのも億劫だ。

「姫、外で待とうか」

 飲料の自動販売機に背を向け、構内を物珍しげに眺め回している後ろ姿に声をかける。

「きっぷは? きっぷは買わないの?」

「あとでね。なくしたら困るから、乗る直前に買おう。さあ、行くよ」

 姫は素直に指示に従った。

 駅舎を出て五分ほど歩き、川に沿って整備された細長い公園に入る。エントランスを飾る花壇に咲いた花々が、かぐわしい香りでわたしたちを歓待した。

「川がある」

 足を踏み入れての姫の第一声だ。ピンク色の瞳は、公園の左手を流れる川に注目していて、花壇には見向きもしていない。

「この町は川が多いからね」

「くびながりゅうはいないの?」

「この川にはいないよ。目撃情報が一件もないということは、そう考えても間違いではないんじゃないかな」

 花壇の横を通過し、園内の奥へと向かう。

 姫は川ばかり見ている。昨日橋の上から眺めた川と比べれば水が濁っているので、いかにも生物が隠れているように感じられるのかもしれない。しかし、巨大生物が身を潜めるには水深が浅すぎるし、濁り具合もそこまで酷くはない。

 階段を下りると、川に並行して遊歩道が伸びている。水流と遊歩道の境界には、わたしの腰ほどの高さの鉄製のフェンスが設置されているだけだ。姫が人間ならば通るのは避けていただろうが、彼女は耐水性を備えている。

 公園に足を踏み入れた当初歩いていた場所と、現在わたしたちが歩いている場所との高低差は三メートルほどで、垂直にそり立つ石製の壁で繋がっている。白色に近い灰色の表面は、カラースプレーによる落書きで埋め尽くされている。芸術性を感じさせる手のこんだ一作から、卑猥な単語をつづっただけの幼稚なものまで、広い意味で落差が激しい。

 落書きを眺めながら歩いているうちに、文字の羅列が目に留まった。使われているのは血のように真っ赤なスプレーで、詩がつづられている。

『機械の大将やって来た

 灰色の雨が降る夜に

 壊れる予感にみな怯え

 獣は仕事を放棄した』

 それから先は、真っ黒なスプレーで塗りつぶされていて判読できない。

 シャツの裾を引っ張られた。姫だ。

「上に上がらないの?」

「そうだね。そうしよう」

 石造りの階段を上がって元の高さに復帰する。噴水の前に簡易な木製ベンチを見つけ、並んで腰かける。

「ふんすいの水、出たりとまったりしてるけど、おなじじゅんばんでくり返しているの?」

「さあ、どうだろう。詳しい仕組みはちょっと分からないよ」

「きかいがぜんぶやってるんでしょ? ふんすい、すごいね」

 壁に書かれていた詩の、「機械の大将やって来た」という一節を思い出す。

 作者はなにを言わんとしているのだろう? 解読を試みようとしたが、残念ながらそれ以外のフレーズを失念してしまった。わざわざ確認しに戻る気にはなれず、頭の中から詩の問題を追放した。

 ランニングやジョギングやウォーキングに勤しむ人々が、時折目の前を通り過ぎるのみ。水が噴き上がる音が一番うるさいという環境の中、わたしたちは取り留めのない話をする。川への関心を失ってしまったらしい姫とは対照的に、わたしは頻繁に川を振り向いた。

 そうするうちに、そろそろ出発したほうがいい時間になった。その旨を姫に伝え、移動を開始する。

 トラックから見た川について訊くのを忘れていたことには、公園を出てから気がついた。

 もう、尋ねたいとは思わなかった。


 料金ちょうどの小銭を渡し、姫に券売機で二人ぶんの切符を買ってもらう。何事も経験、というやつだ。

 大人のわたしのぶんは、料金ボタンをそのまま押す。小児に該当する姫のぶんは、通常の料金ボタンを押す前に子ども料金のボタンを押す。初体験のぎこちなさはあったものの、間違えることなく二枚の切符を購入できた。自動改札機も問題なく通過できた。

 待つあいだに座るベンチの空きを探しているうちに、目的の電車がホームに到着した。乗りこんで車内を見回したが、ここでも空席が見当たらない。

「座るところはなさそうだね。二駅のあいだだし、立っていようか」

 わたしたちは車両のほぼ中央で足を止めた。姫には手すりを握るよう指示し、わたしは吊革に掴まる。

 目の前の座席には、二人の中年女性が座っている。顔の造作も服装もまるで違うが、なぜか似た者同士だという印象を受ける二人組だ。電車が動き出した。

 姫は窓外を眺めている。わたしも同じ方向に注目する。見覚えのある、田畑と住宅が混在する景色が右から左へと流れていく。流れる速度は次第に上昇し、片側二車線の市道の上を通過したのに前後して一定に保たれる。

「それでね、ミヤニシの犯行だとすぐにばれるんだけど――」

 わたしの真正面に座る中年女性が、隣に座る中年女性に話しかけた。やはり、二人は連れだったようだ。遺体や血痕といった、物騒な単語が次から次へと話し手の口から出る。小説を読むのが趣味のわたしは、推理小説のトリックについて言及しているのだとすぐに分かった。

「ちょっと動機がふわふわしているっていうか、そういう印象もなくはないんだけど、肝心なのはミヤニシが――」

 ミヤニシという人名を何度も聞くうちに、似た名前の人物が起こした殺人事件のことを思い出した。二十六歳の無職の男が、同居していた両親と姉を殺害して行方を眩ませたが、一週間後、現場近くの雑木林で首を吊って死亡しているのが発見された、という概要だ。フルネームはもう忘れてしまったが、宮本か宮田か宮下か――とにかく、名字の最初に「宮」の一字が使われた名前だったと記憶している。

 事件が起きたのは六・七年前。隣県で発生し、わたしたちが住む県まで犯人が逃げてくる可能性があるということで、地元のテレビや新聞の報道には熱がこもっていた。

 六・七年が経った今でも、事件の詳細を比較的詳しく記憶しているのは、それが理由だ。

 同時に、わたしが母親への嫌悪を募らせていた時期だからでもある。

「……わたしは」

 犯人に感情移入していたのだろうか? 犯人を、応援していたのだろうか? 犯人に、逃げきってほしいと願っていたのだろうか?

 それとも、なにもできない無力なわたしに代わって、わたしの母親を殺してほしかったのか。

 あるいは、男が自らの両親と姉を殺したように、わたしも母親を殺したかったのか。

 あのころと比べて、わたしのなにが変わったのだろう。

 なに一つ、などと、的外れなたわ言をほざくつもりはない。しかし、変わっていないことは驚くほど多いように思う。昨日こそ例外だったが、毎日のように母親から電話がかかってくる。形の上では一人暮らしをしているが――。

 暗い思念に囚われかけたが、次の停車駅を報せる車内アナウンスに我に返る。わたしたちが降りる駅だ。

 姫は窓外を眺める態勢を崩そうとしない。中年女性は相も変わらず、ミヤニシについて語りつづけている。

 電車が目的の駅に停まった。

「姫、着いたよ。降りよう」

 背中を弱く叩いて知らせると、あっさりと窓から視線を切り、わたしとともに車両から降りた。

 降車したのはわたしたちだけだったので、乗客全員が、去りゆくわたしたちの一挙手一投足を注視しているかのようだった。

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