満月

 姫はテレビばかり観ている。空き時間は常にそうしているといってもいい。

 一方のわたしは、携帯電話をいじってばかりいる。

 姫は何気なくといったふうに携帯電話の画面を覗き見ることはあっても、興味は示さない。「使ってみる?」とひと声かけても、首を横に振る。そして、無言のままテレビの視聴を再開する。

 救いなのは、暇だから仕方なくではなく、興味深そうに、真剣に視聴していることだろう。

 ただ、このままではよくないのではないかと、保護者の立場の人間としては思わざるを得ない。若い親が幼い我が子に携帯電話に与え、おもちゃ代わりにさせることに批判的な意見があるのは知っているが、批判する側の心情が理解できる気がする。姫は手がかからない子どもだけに、なおさら。

 姫のために本を買わなかったことが、改めて悔やまれた。しかし、もう一度外出する気にはなれない。

 そこはかとなく怠惰で物憂い雰囲気を漂わせながら、わたしたちが住む町は日没を迎えた。


 ミネストローネがメインの夕食をとったあとは、静かで穏やかな時間がわたしたちのあいだを流れた。

 テレビと携帯電話の合間に、わたしたちはショッピングモールで過ごした時間を振り返った。内容は、見かけた商品や光景や人物についての率直な感想や意見。何度も同じ話題が出たが、どの思い出もわたしたちにとって快いものだから、同じ道を巡るのも苦ではない。ミクリヤ先生の車のことを思い出し、少し切ない気持ちにもなったが、しょせんは一瞬の揺らぎに過ぎない。

 半ば人工的に発生させた会話ではあったが、ひとたび話に入りこむと、話題を取捨選択したり、点を線にする努力をしたりするまでもなく、言葉は自然に流れていく。姫の視線が投射される対象も、テレビ画面よりもわたしのほうが次第に長くなっていった。


 食器洗いをしているさなか、ふと窓外に視線を投げると、白銀の満月が浮かんでいた。

「ねえ姫、外でいっしょに月を見ない?」

 食器洗いを終えたところで、ソファでテレビを観ている姫に声をかけた。彼女は川を、植木鉢にたたえられた土を、熱心に眺めていたから、花鳥風月を愛する心がきっとあるはずだ。そんな思いのもとに。

「庭に出て、浮かんでいる月をただ見上げるだけだよ。どこに行くとか、他になにをするとかじゃなくてね。季節外れだけど、いっしょにどうかな?」

「うん、見る。お月さま、ナツキといっしょに見る」

「じゃあ、外に出ようか」

 姫はテレビを消し、わたしは寝室まで上着をとりに行く。

 外は少し肌寒く、上に一枚羽織るとちょうどよかった。

 そう広くない庭の東南東の角には、一本の欅の木が植わっている。その下に、二人掛けの木製ベンチが置かれている。購入時から庭に備えつけられていた一脚で、いまだに新品同然にきれいだ。座面が濡れても汚れてもいないことを確認してから、姫とともに腰を下ろす。窓ガラスという障壁が取り払われたことで、月に含まれる銀色の成分が主張を強め、神秘的な印象が増した。

「月、きれいだね」

 声をかけたが、返事はない。姫は放心したような顔で満月を仰いでいる。きれいだと思っているのか。珍しいと思っているのか。それとも、ただただ見惚れているのか。表情からは読みとれない。

 月を八割、姫の横顔を二割といった比率で眺めながら、わたしは時間を消費する。わたしと姫は言葉を交わさない。まだ虫が鳴く季節ではないから、世界は生きとし生けるものが死に絶えたかのように静かだ。その静けさが、わたしたちをしたいようにさせてくれる懐の広さが、しみじみと快い。立ち昇る雑草の青い匂いも、尻に感じる座面の冷たさでさえも、ムードを高めるのに一役買ってくれている。

 姫がいなければ、こんな時間帯に、用もないのに屋外に出ることはなかった。剥き出しの夜の中に一定時間身を置いたからこそ、日中と夜間では空気の質感が微妙に違うことに気がつけた。月見を提案した動機は気まぐれだったが、わたしは今、深い意味がある時間を過ごせていると、心から実感している。

 願わくは、姫にとってもそうであってほしい。

「おおとり、きょうも鳴かないね」

 姫のつぶやきが静寂を破った。視線の方向は、依然として夜空に浮かぶ天体だ。パステルピンクの瞳にたたえられた輝きは、月見を始めた当初から色褪せていない。

「そうだね。今夜も徘徊はしないみたい」

「お月さまがあかるい夜は出ないの?」

「そんなことはないよ。大鳥と月はまったくの無関係。最近はあまり徘徊しなくなったみたいだし、飽きちゃったのかもね」

「おおとりって、大きな声で鳴くんでしょ。ぼくたちが話をしていても聞こえる?」

「場所にもよるけど、たとえば今みたいに庭にいるときに、庭のフェンスのすぐ向こうで鳴いたとしたら、話し声がかき消されるどころか、ひっくり返るくらい驚くよ。家でテレビを観ていても聞こえるくらいだからね、大鳥の鳴き声は」

 姫がこちらを向いた。わたしは表情を和らげる。

「大丈夫だよ。大鳥は人家の庭までは入ってこない、紳士的な鳥だからね。だから、安心して月を眺めていられるよ」

 左手の甲にぬくもりが被さった。姫の右手だ。甘えて、あるいは怯えて体温を求めてきたというふうではなかったが、控えめな積極性がいとおしく、そっと手を握る。人間そのもののぬくもりに、いとおしい気持ちが増した。手を握る以上のことをしてみたいと思った。

 行動にこそ移さなかったが、姫といっしょに暮らしはじめて明日で三日目。そろそろ、より深い形でのスキンシップを試みてもいいのかな、という気はする。

「明日、姫といっしょに行きたいところがあるんだ。そこへは夕方に行く予定だから、園芸店へ行くのは午前中にしよう。それでいい?」

「うん、いいよ。ナツキの言うとおりにする」

「ありがとう。……あ、そうだ」

「どうしたの?」

「もう一つ思い出したけど、首長竜を見に行くのはどうしようか? 植物を買いに行くのは取りやめにして明日の午前中に行くか、それとも明後日にするか。そのどちらかだね」

「しょくぶつを買ったあとは? あとに行くほうは夕方だから、そのあいだに見に行けるよ」

「そんなに外出ばかりしたら、疲れちゃうよ。夕方に行く予定の場所は、その時間じゃないと駄目だから、植物を買いに行くか首長竜を見に行くか、そのどちらかだね。どうする?」

「しょくぶつを買いに行くほうがいい」

「どうして?」

「しょくぶつ、はやく植えたいから」

「なるほどね」

 それからは月にまつわる話をした。地球が太陽の周囲を回るように、月は地球を周回していること。秋には月見をする風習があること。月の模様は、ウサギが餅をついている姿にたとえられていること。

「ふぅん、うさぎさんかぁ。ぜんぜん見えないけど」

「他の国では違う生き物だと見なされているみたいだし、見えかたは見る人次第、ということじゃないかな」

「もしあのもようがうさぎさんで、ほんとうにおもちをついているんだったら――」

 月光に照らされながら姫はほほ笑んだ。幼い目鼻立ちに不釣り合いな、ずいぶんと大人びて見えるほほ笑みに、わたしは軽く息を呑む。

「わるいことをして、つかまって、しかたなくやっているのかもね」


 機械の体にも疲労の概念はある。正しくは、そういう設定にしておけば、姫人形だとしても疲れを感じる。

 姫は布団に潜りこむとすぐに眠りに落ちた。楽しかった一日をまだ終わらせたくなくて、今日経験した出来事について延々と語る。そんな展開をおぼろげに期待していたので、少し残念だ。

 埋め合わせのように、今日という一日を、客観性を心がけて振り返ってみる。

 姫との距離は確実に縮まった。ただ、反省点もいくつかある。収穫が多かったわりには喜べない、というのが率直な実感だ。

 ただ、姫とは無関係のことで言えば、手放しで喜ばしい出来事もあった。

 母親から電話がかかってこなかったのだ。

 昨夜、怒鳴りつけたのが効いた? たぶん、そういうことなのだろう。母親との通話中に声を荒らげ、口汚く罵ることはたまにあるが、昨夜のわたしはいつもにも増して声が鋭く、言葉が汚かった。これ以上みだりに干渉するのは危険だと母親は感じたに違いなく、それが今日の結果に繋がったのは間違いない。

 明日以降も母親と会話する機会を回避できる保証はない。母親の粘着質な性格を思えば、そうはいかないと考えるのがむしろ自然だ。そうなれば当然報復が予想されるし、連絡が途絶えたら途絶えたで厄介でもある。

 それでも、己の力で天敵を退けたという結果は、大いに評価するべきだろう。

 今日もいい一日だった。マイナスもあったが、プラスが上回ったのだから、いい日だ。

 そう結論し、まぶたを閉ざす。

 しかし、スイッチをオフにするようにすんなりとは眠れない。

 やがて、唐突に、姫のほほ笑む顔が脳裏に浮かんだ。庭で月見をしているさなかに見せた、どこか大人びた微笑が。それに少し遅れて、その表情を見せたさいに彼女が発した言葉も。

『もしあのもようがうさぎさんで、ほんとうにおもちをついているんだったら――わるいことをして、つかまって、しかたなくやっているのかもね』

 姫が、あんな表情を見せるなんて。あんな言葉を返すなんて。表情を見せられるまでは、言葉を返されるまでは、想像だにしていなかった。

 当時は衝撃を受けたというほどでもなかった。しかし、思い返せば思い返すほど、驚くべきことだという思いが高まっていく。

 わたしを驚かせる発言をしたのは、姫が姫人形だから? 特別な、あるいは優秀な人格を付与された姫人形だから?

 たぶん、どちらの解釈も間違っている。

 子どもとは、もともとそういうものなのだ。思いがけないときに、思いがけない言葉を口走って、大人を心底から驚嘆せしめる。それが子どもという生き物なのだ。

 姫が発信する思いがけない一面に、表情に、言葉に、もっともっと出会いたい。だから、もっともっと姫と仲よくなりたい。家族だから仲よくならなければいけない、ではなくて。

 義務ではなく好奇心が原動力ならば、もっと肩の力を抜いてあの子と交流できるかもしれない。

 無性に月を眺めたくなった。月で餅をついているウサギは、ほんとうに仕方なくそうしているのだろうか? わたしの目にも、嫌々ながら餅つきをしているように見えるのだろうか? 真実をこの目でたしかめてみたい。

 しかし、布団から抜け出せば、姫を起こしてしまうかもしれない。わたしが不在のときに目覚めたら、不安がらせ、心配をかけることになる。

 だから、今度こそ眠ることにした。

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