約束

 わたしは大きなレジ袋を二つ、姫は小さなレジ袋を一つ、それぞれ提げている。行きと比べて風が強まったわけではないが、橋を渡る姫は少しつらそうだ。

「大丈夫? 持とうか?」

「へいき。おもくないし」

 声の調子からは、いくら無理をしている様子が窺える。子どもらしい強がりと思いやりを、尊く、かわいいと思う。

 帰ったら、ご褒美におやつを出してあげよう。フルーツポンチを「おいしい」と言っていたから、甘いものならきっと気に入ってくれるはずだ。

「いきもの、いないね」

 橋を渡りきってすぐ、姫がわたしに向かって言った。

「ああ、川のことね。探したけどいなかったんだ?」

 うなずく。荷物の重さに気をとられているせいだろう、帰りはそうでもなかったが、行きは熱心に川を覗きこんでいた。

「水質はきれいだし、一匹も棲んでいないわけじゃないと思うけどね。でも、橋の上から見つけるのは難しいかもしれない」

「ナツキも見たことないの?」

「うん。生き物を探すために川を見ること自体、あまりないから。さっきの川とは別に、首長竜が住んでいる川があるんだけど、その近くを通るときには少し気にするかもしれない」

「くびながりゅう? なにそれ」

「文字どおり、首が長い恐竜だよ。わたしも何回か見たことあるけど、大きかったよ。信じられないくらい大きかった。動きは緩慢なんだけど――」

 姫の唇が固く結ばれていることに気がつき、言葉を切る。

「怖い? 大きな恐竜」

「わからない。だって、まだ見てないし」

「それもそうだね。姫は首長竜、見たい? 温厚な性格だから、見るだけなら危険じゃないよ」

「うーん、でも……」

「やっぱり怖いよね。大人しかろうがなんだろうが、大きな生き物は」

「おおとりとどっちが大きいの?」

「断然首長竜だね。大鳥は大きいといっても、しょせんは鳥だから」

「大きなとりなのに、おおとりのほうが小さいんだ。へんなの」

「そう言われてみれば、そうだね。首長竜だって、他にもっと首が長い生き物がいるかもしれない」

「くびながりゅうのくびって、どれくらい長いの?」

「十メートルくらいだと思うけど、数字を言われてもピンと来ないかな。なにと同じくらいなんだろうね、十メートルって。……うーん、難しい」

 自宅に帰り着くまでのあいだ、わたしたちは首長竜のことばかり話した。


 冷蔵庫に甘いものは入っていなかった。菓子も切らしている。

 人によっては、大切な家族のためにひと肌脱ごうと意気込む場面なのかもしれないが、スイーツを作るだけの技量はわたしにはない。サプライズを演出したかったので、「姫のために甘いものを買ってくる」ではなく、「買わなければいけないものがあるから、コンビニまで買いに行ってくる」という伝えかたをする。

「すぐに戻ってくるから。家の外には出ないようにね」

「うん、わかった」

「テレビを観たいなら観てもいいよ。点けかた、分かる?」

「いちばん上の右の、赤いボタンを押せばいいんでしょ」

「そうそう。じゃあ、行ってくるね」

 コンビニまでの道のりを歩きながら、テレビ以外の娯楽も与えてあげなければ、と考える。書店で本を買わなかったことが悔やまれる。服のことで頭がいっぱいだったとはいえ、言いわけとしては少々情けない。

 姫を家に迎えるにあたっての準備があまりにも不足していた。事前に用意していたのは、寝る場所くらい。服、娯楽、甘いもの。なにもかも用意できていない。

『姫人形は食事もトイレも必要なくて、お世話がとってもカンタン!』

 そんな宣伝文句に踊らされていたのかもしれない。

 わたしが欲しかったのは、一体のアンドロイドの少女ではなく、一人の子どもだ。だからこそ、食事を、排泄を、睡眠を、必要とする設定で作ってもらった。姫人形ではなく子どもとして扱うならば、必要なものは星の数ほどある。そんな当たり前の事実に、姫が来てから気がつくとは。

 挽回できるだろうか?

 挽回するしかない。

 甘いもの、ということ以外に縛りがないので、一つに絞るのは悩ましかった。数ある商品の中からわたしが選んだのは、シュークリーム。一つのパックに一口サイズのものが十六個入っているので、シェアしやすくて好都合だと考えたのだ。

「あっ、ナツキさん!」

 我が家まで百メートルを切った路上で、いきなり名前を呼ばれた。

 振り向いたわたしの目に飛びこんできたのは、ブーツを鳴らし、栗色のロングヘアを揺らしながら駆け寄ってくる、女の子の姿。

 わたしの前で足が止まる。淡くも存在感のある花香が愛嬌を振りまいている。彼女がいつもつけている香水の香りだ。

「偶然です! なんか久しぶりですねー」

 端正な顔に屈託のないほほ笑みを浮かべ、前髪の乱れを指で整える。一目見ただけでこちらの顔まで綻びそうな、華やかな微笑。

 一言でいえば、ガーリー、だろうか。一見地味だが、かわいいと感じるポイントが各所に散りばめられていて、ファッションセンスを感じる。チャームポイントの人懐っこい笑顔を引き立てるコーディネートだ。

 沢倉マツバさん。わたしよりも一つ年下で、今年大学生になったばかり。灰島家近くのマンションで一人暮らしをしている。

 ご近所さんとして、マツバさんとはそれなりに親しくしている。というよりも、積極的に他者と交流を持とうとしないわたしを、明るく気さくな性格の彼女さんが気にかけてくれている、と説明するべきだろう。

「ナツキさん、コンビニから帰ったところですか? 夕食の買い出し?」

「夕食ではないんだけど、ちょっと欲しいものがあったから。マツバさんはもう大学は終わったの?」

「はい! 一時間くらい前に終わって、スーパーで晩ごはんの買い物をしてきたところです。えへへ」

 なにが嬉しいのか、白い歯を綻ばせ、右手に提げたレジ袋を顔の高さに掲げる。袋の口から、きつね色の惣菜が入った透明なパックが覗いている。

「そうそう、今日はこんなことがあったんですよ。授業中なんだけど――」

 マツバさんは話しはじめた。話題は、今日大学であった出来事について。初めて聞く同級生や教員の名前が次から次へと出てくる。置いてきぼりを食らうわたしにはお構いなしに、滑らかに軽やかに言葉を重ねる。独り善がりな、語り。

 それでいて不愉快には感じないのは、ひとえに彼女の人柄のおかげだ。積極性ゆえに他人に迷惑をかけることもあるが、悪気があるわけではないので、謝罪も反省もちゃんとする。特定の個人に悪感情を抱いた場合でも、人格を攻撃するのではなく、その人物が実際に見せた言動のみを取り上げ、笑い話に近い形式で槍玉に挙げる。マツバさんはそういう人だ。

 ただ、毎回のことだが、話が長いのは困りものだ。悪意があって長話に巻きこんでいるわけではないのは分かるだけに、言葉を遮るのも心苦しい。

 シュークリームはアイスクリームのように溶けないが、ぬるくなってしまう。やきもきしていると、

「そうそう。明日、久々に猿焼きがあるらしいですよ」

 マツバさんはいきなり胸の前で掌をぱちんと鳴らし、そう言った。

「ああ、猿焼き。もうそんな季節なんだね。会場はK町の広場?」

「はい、いつもどおり。私、今回も見に行こうと思っているんですけど、ナツキさんもいっしょに行きませんか?」

 姫を長時間一人にしておくわけにはいかないから、三人で、ということに必然になる。

 わたしと、姫と、マツバさんの三人で、猿焼き。

「誘ってもらったのは嬉しいけど、今回は遠慮させてもらおうかな。わたし、あの臭いがどうも苦手で」

「そういえば、そうでしたね。ナツキさんは私と違ってデリケートだから」

「デリケートかどうかは分からないけど、ほんとうに苦手だから」

「終わりのほうなら大丈夫じゃないですか? 猿の焼却が終わって、臭いが薄れたあとなら」

「でも、明日は出かける用事が入るかもしれなくて」

「そうですか。私は終わり近くに会場に寄る予定なので、来られるようだったらいっしょに会場を回る、ということでどうですか?」

「そうだね。それがいいかもしれない。都合がつくようだったら、必ずそうするね」

 この機会に姫を紹介しようかとも思ったが、やめておく。マツバさんの性格的に、まず間違いなくあれこれ質問してくる。話をこれ以上長引かせたくなかった。

「じゃあ、わたしは行くね」

「あ、はい。長々と引き留めてごめんなさい。明日、楽しみにしてます!」

 マツバさんは年端もいかない子どもに対してするように、顔の真横でちょうちょのように手をひらめかせ、鼻歌を歌いながら去っていった。

「猿焼きが楽しみ、か」

 マツバさんの後ろ姿が曲がり角に消えたのを見届けて、歩き出す。直後、ふとこう思った。

 もしかして、イベント自体というよりも、わたしといっしょに過ごす時間が楽しみ、なのだろうか?


 リビングに姫の姿はなかった。

 テレビ画面は真っ暗だ。庭に通じる戸が半分ほど開いている。そこから垣間見えているのは、艶やかなパステルピンク。

「姫」

 買ったものをダイニングテーブルに置いて戸に歩み寄り、隙間を広げて声をかける。姫は肩越しに振り向いた。

 彼女は戸のすぐ外に置かれた植木鉢の前にしゃがんでいた。アイボリーのプラスチック製で、高さと直径はともに十五センチほど。褪せたビターチョコレート色の受け皿が真下に敷かれている。たたえられた土の表面は乾燥し、いくつかのひび割れが走っている。

「植木鉢を見ていたの? ずっと?」

 どこか神妙な顔でうなずく。わたし用のサンダルをつっかけているので、小さな体がより小さく見える。

「この植木鉢にはなにも植わっていないよ。今はなにも植わっていない」

 わたしは姫の隣にしゃがむ。姫はわたしの顔を見つめてくる。

「前はなにが植わっていたの?」

「ハーブを植えていたんだけど、たぶん鳥の仕業かな、食べられちゃってね。それ以来ずっと放置してる。ハーブ、分かるかな? とてもいい香りがする植物なんだけど」

「おおとりが食べたの?」

「いや、違うと思う。大鳥の生態はよく分かっていないけど、あんな小さなものをわざわざ食べるとは考えにくいよ。もちろん、絶対にとは言い切れないけどね」

 どうしてなにも植えないの? そう尋ねてくるかとも思ったが、姫は植木鉢に目を落とし、乾いた土をじっと見つめる。面持ちは真剣そのものだ。

「なにか植えてみる?」

 再び、姫の眼差しがわたしの顔へと注がれた。

「姫が選んだ植物を植木鉢に植えて、姫が毎日世話をする。困ったことや分からないことがあれば助けるけど、基本的には姫が一人で世話をする。世話っていうのは、毎日の水やりとか、雑草が生えてきたら抜くとか、そういうことね。どう? やってみる?」

「植えるしょくぶつはどうするの? 道とかに生えているのをとってくるの?」

「植物を売っている大きな店を知っているから、そこへ行こう。少し遠いし、今日はゆっくりしたいから、明日以降にでも。どうする?」

「やってみたい」

 答えて、姫は気恥ずかしそうにほほ笑んだ。彼女がわたしに初めて見せた、はっきりとした笑み。それがはにかみ笑いというのが嬉しくて、自分の顔も笑顔に変わったのが分かった。

「よし。じゃあ、明日か明後日、植物を買いに行こう。約束したよ」

「うん、やくそく」

「荷物を持ってくれたお礼にシュークリームを買ってきたから、いっしょに食べよう。ちゃんと手を洗ってね」

 姫は「うん」と元気よく返事し、洗面所へと駆けていく。

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