獣人

 購入する服の選定には思いのほか時間がかかった。子ども用の衣類を買うのが初めてなうえに、姫が意見をほとんど口にしなかったからだ。

「姫。予定を変更して、先にお昼ごはんにしない?」

「どうして?」

「早めに食べたほうが混雑を避けられるからね。それに、歩き回ってちょっとおなかが空いてきたから。姫はどうしたい?」

「ごはんがいい」との返答だった。続いて「なにか食べたいものはない?」と問うと、「とくにない」とのこと。たまたまファミリーレストランを見かけたので、そこに入った。

 店内は子ども連れの客が多いらしく、うるささと紙一重の賑やかさに満たされている。幸いにも、数分待っただけで席に座れた。

 姫は熱心にメニューを眺めている。ただし、他のテーブルに着く多くの子どもたちのように、浮き立つ心を抑えきれずにはしゃいでいるわけではない。わたしは老婆心を発揮して、この料理はこういう味がして、こんな食材が使われていて、といった情報を、うるさくならないように伝える。

 注文はいつまで経っても決まる気配がない。

「じゃあ、お子さまランチにしてみる? いろいろなおかずが食べられるから、きっと満足できるんじゃないかな」

 姫は感情を顔に出さずにうなずき、メニューを閉じて元の位置に立てる。窓ガラス越しの景色が気になるらしく、ガラスに鼻先を軽く押しつけ、真剣な眼差しで観察をはじめた。

 やがて到着したお子さまランチを、姫はどこか拙さが感じられる手つきながらも、行儀正しい箸づかい、もとい先割れスプーンづかいで味わった。チキンライスのピーマンも、ハンバーグの付け合わせのニンジンも、ためらいなく口に入れ、眉一つ動かさずに咀嚼する。

「姫、美味しい?」

「うん、おいしい」

 問われるとそう答えたが、自分から感想を口にすることはない。わたしが食べている日替わり定食の、ポークソテーやオニオンスープに興味を示し、欲しがることも。

 ただし、一度だけ例外があった。

「おいしい」

 ひと足早く食事を終え、次に寄る店のことを考えていたわたしは、はっとして姫を見た。デザートのフルーツポンチを食べているところだ。どの食材を指して「おいしい」と言ったのかは、すでに胃の中に消えてしまったので分からない。

 一房のみかんをすくい、口に運ぶ。「よく噛んで食べなさい」という親からの教えを律義に守る幼児のように、柔らかさを考えれば過剰なほどしっかりと噛みしめ、嚥下する。続いてナタデココをすくい上げたところで、わたしの視線に気がついた。

「フルーツポンチ、美味しい?」

「うん。あまいから」

 そう答えて、すくったものを口に含んだ。


 本に興味があるかと姫に問うてみると、「うーん」という曖昧な言葉が返ってきた。

 あるにせよないにせよ、いっしょに店の中まで来てもらうつもりだ。わたしが本屋に寄るのは、自分が読む小説を買うため。店内には座れる場所が多くあるし、子ども向けの書籍も充実している。短時間なら苦痛なく過ごせるはずだ。

「わたしはあっちに置いてある本を見てくるから、姫はここで絵本を読みながら待ってて」

 十人も入れば満員になるだろうか。ボールがほとんど入っていない代わりに、アナログな玩具がいくつか用意されたボールプールの前で、姫に指示を与える。絵本や児童書の陳列棚に隣接した、小さな子どもとその保護者のために設けられた空間だ。

 現在その場所にいるのは、総勢五名。ボールプールの縁に腰かけて児童書を読んでいる、姫と同年代の女の子。絵本を読み聞かせ、謹聴している、若い女性と三歳くらいの男児。寝そべって動物図鑑を読み耽っている、小学校低学年と思われる男女は、きょうだいだろうか。広さ的にも雰囲気的にも充分なゆとりがあるから、リラックスして過ごせるはずだ。

「どの本を読めばいいの? すごくたくさんある」

 本棚を眺め回しながらの質問だ。

「気になったものを読めばいいよ。たとえば、ほら」

 絵本と児童書の多くは、表紙が見える形で陳列されている。わたしはその中から、黒猫が描かれた一冊を手にとる。タイトルは『山でのできごと』。黄色い首輪をつけた緑色の瞳の黒猫が、自らの足元に転がっている白く丸い石を見つめている、というイラストが描かれている。

「この絵本はたぶん、黒猫が出てくるお話だと思うけど、姫は読んでみたい? 読みたくない?」

「読みたい」

 ピンク色の瞳は黒猫へと注がれている。少なくとも、絵本にまったく興味がないわけではないようだ。

「それじゃあ、これを読みながら待ってて。内容が気に入ったらずっと読んでいればいいし、気に入らないなら他の本に交換すればいいよ。読み終わった本を元の場所に戻すのを忘れないようにね。すぐに戻ってくるから。分かった?」

 黒猫から顔を上げ、こくりとうなずく。

「じゃあ、ちょっと待ってて。すぐに戻ってくるから」

 再びうなずいたので、うなずき返してその場から離れる。

 角を曲がる直前に様子を窺うと、姫はボールプールの中に入っていた。片隅で正座をして、『山でのできごと』を読んでいる。表情は真剣だ。あの様子ならば大丈夫だろう。

 目的の棚に向かう道中、雑誌コーナーに平積みにされていた雑誌に目と足が止まる。

 純白のワンピースを身にまとった少女が、カラフルな花畑の中で蒼穹を仰いでいる。頭からは狐の耳が生え、ワンピースの裾からはふさふさとした黄金色の尻尾が飛び出している。写真週刊誌で、狐の獣人の少女のグラビアが巻頭に掲載されているようだ。

 獣人に対する差別が社会問題として取り上げられるようになって、もう何年になるだろう。当初はマスメディアを中心に連日その話題で盛り上がったが、派手な花火は燃え尽きるのも早かった。しかしあれ以降、獣人たちが公の場で発言する機会が格段に増えたのだから、祭りのようなあの騒ぎにも大いに意味があったのだろう。

 ページをめくると、表紙の少女のお尻のアップが見開きで掲載されていた。総面積の狭さが窺える縹色の下着は膨らみの下まで下ろされ、臀部のほぼ全域がさらけ出されている。尻尾の付け根を大きく写すことで、少女が真正の獣人だと証明するのを第一の目的として撮られた一枚らしい。獣人差別が社会問題化して以降、「獣人を理解する一環」という名目のもとに、ファッションとして獣人を装うのが一種のブームと化し、獣人たちから「かえって差別的だ」という批判の声が上がった影響だろう。

 露出度が高い衣装をまとい、扇情的なポーズを撮影した写真が多かった。少女は健康的な痩身で、胸が豊かだ。薄着姿を撮りたい気持ちは理解できるが、比率があまりにも高すぎる。少女は幼さが残る目鼻立ちをしているから、表紙のワンピースのような、女の子らしい衣装も負けないくらい似合いそうなのに。

 グラビア掲載ページはあっという間に終わった。本を閉じて元の場所に戻し、通路を先へと進む。

 ホラーとミステリの新刊を中心にチェックした。あまり名前を聞いたことがない若手作家の作品の中に、興味を惹かれるものが何点かあったが、購入を決断するにはあとひと押しが足りない。

 なにか一冊買っておきかったが、これ以上時間を費やしたくない。名残惜しさを胸にしまい、来た道を引き返す。

 姫は同じ場所で、同じ姿勢で読書をしていた。読んでいる本も『山でのできごと』のままだ。待たされているから仕方なく読んでいる、という様子ではない。

「姫、お待たせ」

 姫は顔を上げ、絵本を閉じた。

「ずっと同じ本を読んでたの?」

「うん。おもしろかったから」

「それはよかった。どんなお話だったの?」

「えっとね、くろねこが山にたんけんに行くの。それで、へんなところに丸い石が置いてあって、じっと見ていたら、くろねこのおにいちゃんが出てきて……」

「石の中から? 猫が?」

「石の中じゃなくて、そばにある木のうしろから」

「お兄ちゃんなんだから、弟の黒猫といっしょに暮らしているはずだよね。そのお兄ちゃんが、どうして山の中にいるの? 先回りをして山に来ていたということ?」

 姫は眉根を寄せて小首を傾げた。考えを巡らせているようだが、言葉は出てきそうにない。

「とにかく、面白い本みたいでよかった。さあ、服屋さんに服を買いに行こう」

 立ち上がり、棚に『山でのできごと』を戻す。その手つきはとてもていねいで、大げさかもしれないが、誇らしい気持ちになった。


 一回目に来たときに、買う服の候補はある程度絞ったのだが、姫はまだ迷っている。「どれがいいの?」と確認をとっても、「これがいい」と特定の商品を指し示すことはない。結局、わたしが好ましいと思った服を買う形となった。

 パジャマ、下着、部屋着、上着、靴下……。

 必要最小限に留めたつもりだったのだが、わたしが両手に袋を持ち、姫にも手伝ってもらわなければならない量になった。

 建物からは、入ってきたのとは違う出入り口から出た。最後に寄った店から近かったからで、それ以外の意味があったわけではない。

 駐車場を横切っているさなか、思いがけない映像を視界に捉え、わたしの足は止まる。

 一般的には高級車と呼ばれている車種の、一台の黒い車が駐車してあったのだが、ミクリヤ先生の愛車と同じ型、同じカラーリングだったのだ。

 鼓動がテンポを速めた。ビニールの音を鳴らさないように、レジ袋の持ち手を握り直す。

 ミクリヤ心療内科は今日も営業日だ。昼休み時間がいつからいつまでなのかは把握していないが、一般的にはすでに終わっている時間帯。ミクリヤ先生の車ではない気もするが、絶対に違うとは言い切れない。ナンバーまでは覚えていないから、判断を下せない。

 もしこの場所に来ているのだとしたら、会いたい。昨日の診察時に言及した姫を、見てもらいたい。

 心臓はまだ高鳴りをやめない。

 わたしは馬鹿だ。車は、ミクリヤ先生のものではないかもしれないのに。探したとしても、会える保障はないのに。会えたとしても、歓迎してもらえるとは限らないのに。

 思えば、診察室以外の場所でミクリヤ先生の気配を感じたのは、これが初めてかもしれない。

 ただそれだけで、こんなにもいとおしいなんて。こんなにも胸がざわめくなんて。

「――ナツキ」

 袖を引かれて我に返った。姫だ。口を半分開けてわたしを見上げている。

「どうしたの? かえらないの?」

「あ……ごめん。ちょっとぼーっとしてた。行こうか」

 わたしたちは歩みを再開した。

 束の間とはいえ姫をほったらかしにするなんて、どうかしている。姫はミクリヤ先生に対するわたしの想いなんて知らないし、荷物だって持っている。そういった細かい事情を抜きにしても、わたしは姫の親代わりなのだから、姫を最優先に行動しなければいけないのに。

 一人暮らしをしていたころとは、なにもかもが違うのだ。気を引き締めないと。

 そう自分に言い聞かせながらも、視界に映らなくなるくらい遠ざかるまでに二度、ミクリヤ先生のものかもしれない車を振り返った。

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