二日目

長屋

 起床時間は普段よりも少し遅かった。

 隣を見ると、姫はまだ眠りの中にいる。

「姫」

 弱い力で肩を揺さぶると、まぶたが開いた。上体を起こし、大きく口を開けてあくびをする。そうしたあとには、数秒前まで夢の世界にいたのが嘘のように、すっきりした顔をしている。不自然というほどではないかもしれないが、驚くほどスムーズな切り替えだ。

 どこからどう見ても人間にしか見えないが、姫はやはり姫人形らしい。

 のんびりと黒衣をまとう姫を眺めながら、服を買っておきたいと思う。普段着には少し重すぎるし、パジャマも下着兼用の一着だけというのは少なすぎる。

 着替えたあとは、カスタードクリームが入ったロールパンに、甘いオレンジジュースの朝食をとる。

「どう? 美味しい?」

 姫が一口目をかじり、嚥下したのを見計らって尋ねると、パステルピンクの瞳がわたしを見返した。

「あまくて、おいしい」

「気に入ってくれたの? それはよかった」

 昨夜姫が観ていたテレビ番組の話をしながら食事をする。熱心に観ていたので、分析的な意見が聞けるかとも思ったが、述べられたのは擬音語を多用した感想。設定年齢相応の無邪気さに、何度も笑みがこぼれた。

 服を買いに行く予定については、互いが食べ終わるころになって切り出した。

「そのお店って、どこにあるの? 遠い?」

「ううん、歩いて行ける距離。買い物をして、お昼ごはんを食べて、帰る。それでいい?」

 姫は間髪を入れずにうなずいた。

 やがて互いのパン皿が空になった。クリームが付着した指先を舐める仕草は子ネコを連想させ、いつまでも眺めていたくなる愛らしさだ。

 穏やかないい朝だと、しみじみと思う。


 わたしがこの町に引っ越す前年、現在の自宅から徒歩数分の場所にある木造の長屋で、親子喧嘩の末に母親が娘を刃物で刺す、という事件が起きた。母親は四十代で、娘は十代。母子家庭だったという。

 肩と腕を数か所刺された娘は、玄関のガラス戸を突き破って屋外へと逃げ出した。戸に鍵がかかっていたため、開錠するよりも早く脱出できると判断して強行突破した、という経緯だったようだ。

 事件後、加害者と被害者がどうなったのかは、わたしには分からない。

 事件現場が近くにあると知ったのは、現在住んでいる家に転居してからのこと。近所の人が噂話をしているのを耳にしたか、マツバさんに教えられたか、そのどちらかだったと思う。

 母親との関係に悩んでいたわたしは、事件に大いに興味を惹かれ、問題の長屋へと足を運んだ。引っ越し翌日の昼下がりだった。近所の小さな公園に咲くソメイヨシノがまだ花を残していたことも、昼食にアロエジャムを挟んだサンドウィッチを食べたことも、はっきりと覚えている。

 玄関の戸は全戸ガラス製。戸が破損し、玄関先にガラスの破片を撒き散らしている部屋は、当たり前だが一戸もなかった。長屋は狭く、日当たりが悪かった。経済的に余裕がない人間が住む家、という印象を受けた。

 東端に位置する部屋の前で、老爺が柄の短い箒で地面を掃いていた。見事な白髪で、七十歳は過ぎているだろう。大家だ、とわたしは直感した。

 事件後に大家が記者からインタビューを受けている模様ならば、一度だけテレビで観たことがある。ただし、映っていたのは首から下で、声には機械で加工が施されていた。

 親子は日ごろから仲がよさそうだった。顔を合わせると必ずあいさつをしてくれた。事件を起こすような人間には見えなかった。

 インタビュアーの質問に対して、大家はそんな笑ってしまうほど月並みな批評を口にしていた。

 老爺が大家にせよ、そうではないにせよ、話しかけても得るものがあるとは思えない。到着して五分も経っていなかったが、踵を返した。


 それから四年の歳月が流れ、事件現場の長屋からほど近い、住宅地の細道をわたしたちは歩いている。

 買い物に行くついでに再訪しようと思ったのではない。目的地に行くには、現場近くの道を通るのが最短ルートなのだ。

 事件のことは姫には話さなかった。問題の長屋の真横を通るならば、あるいは言及していたかもしれない。しかし、ほど近いとは言い条、わたしたちが歩いている道からは視認できない場所に長屋はある。

 わたしたちのあいだに会話はない。

 姫は物珍しそうに周囲を見回している。疑問質問などが投げかけられれば答えるつもりでいるのだが、話しかけてこない。だから、わたしも黙っている。

 次第に川が近づいてくる。反比例するように人家がまばらになっていく。

 長い橋を渡って対岸に行けば、商業施設なども多く見られるようになる。しょせんは田舎だからたかが知れているが、賑わいは賑わいだ。

 そういえば、灰島家に向かうトラックの中から川を見た、と姫は言っていた。

 やがて橋が見えた。朝夕のラッシュ時には渋滞が生じる片側一車線の道路も、現在はスムーズに車が流れている。

「ナツキ。このはし、大きいね」

「そうだね、大きいね。風が強いから気をつけるんだよ」

 わたしは車道側を、姫は欄干側を歩く。仮に欄干が設けられていない橋を渡るとしたら、保護者はどちら側を歩くべきなのだろう。

「姫、見て。川面がきらきらしていて、きれいだね」

 中ほどに差しかかったあたりで足を止め、欄干越しに川を覗きこむ。姫も同じ対象に視線を注ぐ。ただし、背が低いので欄干の隙間からだ。

 水はうっすらと緑がかっている。水質は澄んでいて、川底の岩の凹凸までくっきりと見分けられる。

 姫に視線を戻すと、欄干越しに川を見下ろしているのは相変わらずだが、その場にしゃがんでいた。抱きかかえて、欄干に邪魔されない位置から川を見せてあげれば、喜ぶかもしれない。

 実行しようかとも考えたが、やめておくことにする。守るものがなにもない状況で姫を高く持ち上げれば、思いがけない悲劇が彼女の身に降りかかるかもしれない。考えすぎだとは思うが、万が一ということもある。

 これは、保護者として適切な判断だと言えるだろうか?

 答えを教えてくれる人間はどこにもいない。わたしとしては自信を持ってうなずきたいし、うなずくべきだと思っている。

「姫、そろそろ行こうか」

 歩き出しながら促すと、素直に指示に従った。ただし、視線の方向は依然として川だ。

 トラックの中から見た川について訊きそびれていることには、橋を渡りきってから気がついた。

 川のことを尋ねたい欲求は、わたしの中から跡形もなく消えていた。


 対岸に渡って十分ほど歩くと、目的地のショッピングモールに到着した。

「たてもの、大きいね。くるま、すごくたくさんとまってる」

 姫の声は少し上擦っている。わたしは姫の言葉に適時相槌を打ちながら、彼女を建物の中へと導く。

 平日だが来客は多い。姫は人の多さに驚くとともに、興味深く感じているらしく、熱心に周囲を見回している。

「まずは服屋さんに寄るから。子ども服を売っている店。行ったことはないけど、一階のどこかにあると思う」

 姫の歩幅に合わせてゆっくりと歩きながら、わたしは説明する。磨き抜かれた床を靴底がこすり上げる音の主張は決して弱くないはずだが、喧噪に埋没している。

「でも、買うのは帰る直前ね。荷物を持って歩くと疲れちゃうから。買う服がだいたい決まったら本屋さんに行こうか。気に入ったものがあれば買ってあげる。その次は昼食。で、食べ終わったら服を買って帰る」

「ふくやさん、本やさん、おひるごはん、ふくやさん」

「うん、その順番。じゃあ、はぐれるといけないから」

 左手を差し出すと、姫はためらいなく握った。人肌そのものの温もりを感じた瞬間、昨日から今までのあいだ、姫の肌に直に触れる機会が一度もなかったことに気がついた。

 店頭に陳列された商品の数々と、十人十色の利用客に気を奪われて、姫の進行方向に対する注意はおろそかになりがちだった。保護者として当然、周囲には気を配っているが、通行人との肉体的接触を完璧に防ぐのは難しい。年端のいかない女の子ということで、ぶつかった相手の対応がおおむね寛大なのは幸いだった。

 この人・人・人の中に、人間とは非なる存在はどのくらいの割合でまぎれているのだろう? この国におけるアンドロイドの販売台数については把握していないが、年々緩やかに上昇しているというデータは見たことがある。富裕層を中心に普及、ということだったから、主に庶民が利用するこの場では、わたしが考えているよりも割合は少ないかもしれない。

「わたしが富裕層、か」

 苦々しく吐き捨てたひとり言も、歪んだ笑みも、観測した者は誰一人としない。有象無象の客たちはもちろんのこと、手を繋いでいる姫でさえも。

 周囲の人間の顔や姿態をさり気なく観察してみる。間違いなくアンドロイドだ、と断言できるような人物は一人も見つけられない。

 それでは逆に、姫を見てアンドロイドだと見抜く人間はいるのだろうか?

 ――誰にどう思われようと構うものか。

 手を握る力を、姫に気づかれないように、ほんの少し強めた。

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