就寝

 入浴は一人で手早く済ませた。

 姫はリビングでテレビを観つづけている。わたしはキッチンでオレンジジュースをグラスに注ぐ。大好きでよく買っている、とびきり甘いオレンジジュースを。

「ナツキ、いいにおいがする」

 ジュースのパックを冷蔵庫にしまった直後、思いがけず姫が話しかけてきた。

「ん? 匂い?」

「花みたいなにおい」

「ああ、シャンプーとボディーソープね。オレンジジュースのことを言っているのかと思った。姫も飲む?」

「いらない。のど、かわいてないから」

「飲みたくなったら自由に飲んでいいよ。飲み物はみんな姫の手に届く場所に置いてあるから。飲むときはコップに入れて――いや、姫なら直接でもいいかな。間接キスでも全然オッケー」

 半分ほど入った中身を一気に飲み干し、洗い桶に入れる。いつもは翌朝、食事が終わったあとで洗うのだが、今晩はただちにスポンジを手にした。洗剤を少量含ませ、グラスをこする。

「お風呂、やっぱり姫も入りたくなった? 一人で入るのが嫌なら、わたしがいっしょに入ってもいいよ。どうする?」

「きょうはいい。入らない」

「もしかして、遠慮してるの?」

 洗剤を洗い流しながら尋ねたが、返事はない。水量は控えめだから、わたしの声は届いているはずだ。現在放送されているのは、過疎化が進む村の日常を追ったドキュメンタリー番組。五・六歳の少女の興味を惹く内容ではない。

『もしかして、体が機械でできているから、濡れると壊れてしまうとでも思っているの?』

 そんな冗談が喉元まで出かかったが、思い留まる。言葉を呑みこんだ気配が伝わったのか、姫が肩越しにわたしを一瞥した。

 君は自分が人間だと信じて疑っていないが、実際はアンドロイドだ。機械の体、人工の心の持ち主であって、生身の人間とは似て非なる存在だ。

 そのような、アイデンティティを根幹から覆すような指摘をしたとしても、パニックを起こさずに処理できるようにプログラムされている。そんな大意の説明が、姫人形販売サイトのどこかに記載されていた。

 したがって、機械だから云々という冗談を言ってもなんの問題もないはずだが、口にするのはやはり抵抗がある。姫はあまりにも人間らしすぎるし、わたしはそもそも、姫には人間のつもりで接すると決めているのだから。

 音を立てて蛇口を閉め、寝室まで行く。本来は応接間として使うことを想定された六畳の和室だが、使い道がないまま放置していて、姫が来るのを機に片づけて活用することにした一室だ。不要な家具などは全て、物置部屋を中心とする他室に移動させてあるので、がらんとしていて殺風景。いかにも寝るためだけに使う部屋、という印象だ。

 押入れから出した布団を畳の上に敷きながら、今日という一日を振り返ってみる。

 同じ空間にいながら、片や携帯電話をいじり、片やテレビを視聴するだけという時間の使いかたは、大いに反省の余地がある。ただ、姫もわたしもおおむねリラックスして過ごせたし、会話もあまりぎこちなくはなかった。母親の電話の件を引きずらずに済んだのは、間違いなく姫の功績だ。

 明日はきっと、互いにとって、今日よりも素晴らしい日になる。そう期待を持てる一日だった。

「姫、もうそろそろ寝よう」

 リビングに戻って声をかけると、姫は片手で口を覆ってあくびをした。ガラステーブルの上のリモコンを手にとり、きょとんとした顔で裏返したり回転させたりする。代わりにわたしが消すと、ソファから立ってもう一度あくびをした。わたしが移動を開始すると、ついてきた。

「寝苦しくない? 脱いだほうがいいよ」

 布団に入ろうとする姫に声をかける。頭を振ったが、すぐに思い直したらしく、黒衣を脱ぎはじめる。露わになったのは、漆黒とは好対照な純白のネグリジェ。顎まで掛け布団を被ったのを見届けて、電気を消してこちらも布団に潜りこむ。

 世界は静寂に包まれている。意識は眠りからは程遠い。姫のことを考えて早めに消灯したのだが、わたしには早すぎたようだ。

 反省点はいくつもあるが、ネガティブなことはあまり考えたくない。母親の邪魔こそ入ったが、一週間ぶりにミクリヤ先生に会えたし、姫という家族ができた。今日という一日を快い気分のまま終えたい欲求が、その他のあらゆる思いを凌駕している。

 姫はまだ眠っていない。かすかに感じられる息づかいがその事実を伝えている。夜のしじまの中で黙ったままでいるのは、少々居心地が悪い。

「姫、お話をしてあげようか」

 姫の顔を注視する。天井を向いているのは分かるが、暗さのせいで表情ははっきりしない。返事はなく、身じろぎもしない。

「今日はとても静かな夜だけど、なぜか分かるかな? それはね、大鳥が現れていないからだよ」

「おおとり?」

 顔の向きはそのままだが、話題に関心を持ってくれている声音だ。

「大鳥というのは、文字どおり大きな体の鳥で、夜になるとこの界隈を徘徊するの。立っているときだと、背丈は二メートルよりも少し低いくらい。翼を広げると五メートル近くにもなるんだ。大きな翼とはうらはらに、歩くことを好む鳥でね。徘徊という言葉を使ったけど、空を飛び回るんじゃなくて、鋭利な鉤爪が生えた太短い脚で地上を歩き回るんだ。鉤爪に太短い脚なんて言うと、歩きにくそうにも思えるけど、下手の横好きという言葉もあるくらいだし、大鳥の場合もそうなのかもね」

「どうして、おおとりは夜になると歩き回るの?」

「夜行性だから、という説が有力らしいけど、詳しくは分かっていないみたい。彼らの生態にはまだまだ不明な点が多いから」

「ナツキは、おおとりに会ったことはあるの?」

「何回か見かけたことはあるよ。体も鳴き声も大きいから、やっぱり怖いね。あの鳴き声は、敵を威嚇する目的で発せられるものではないらしいけど、間近で聞くと心臓が止まるかと思うよ。顔も醜悪だし」

「しゅうあく……」

「醜くて恐ろしい、という意味ね。大鳥っていうのは、なんて言ったらいいんだろう、顔が鳥じゃないんだよね。人面とまではいかないけど、人間によく似た顔をしていて。ある意味、鳴き声よりも顔のほうに恐怖を感じるっていうか」

 言葉を切ったが、言葉はない。

 話が冗漫になってしまっただろうか? それとも、話の運びかたがまずかった? 真相は定かではないが、残念ながら、続きを所望されるように語れなかったのはたしからしい。

 時間が経ちさえすれば、経験を積みさえすれば、きっと姫を楽しませるような話ができるようになる。そう信じたい。

「姫、もう寝ようか」

「うん。もうねる」

 衣擦れの音が聞こえ、部屋は静寂を取り戻した。

 大鳥の特徴的な甲高い声を待ち受けたが、夜の粒子が蠕動する音が聞こえてくるのみだ。

 最近になって大鳥の出没頻度が減ったのはなぜだろう? インターネットで検索をかければ手がかりくらいは得られそうだが、消灯して寝床に体を横たえている現状、携帯電話を手にとる気にはなれない。

 我が家に姫が来た日だというのに、姫をほったらかしにして大鳥に現を抜かすちぐはぐさには、眠りに落ちる直前に気がついた。


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