連絡

 一口大にカットしたキャベツとベーコン、石づきを切り落としてほぐしたしめじを炒めながら、真新しい記憶にアクセスする。

 今日は姫が家族の一員になった特別な日だから、お祝いとして夕食にごちそうを出す。

 その発想は、先ほどの会話中に初めて浮かんだ。姫人形を我が家に迎えるにあたって、わたしなりに準備を整えてきたつもりだが、一度も頭を過ぎらなかった。おめでたいことがあったから、食事は豪華なものにする。特殊な考えかたでは決してないのに。

 母親代わりとして、お前は失格だ。

 見知らぬ、しかし聡明であることは間違いない何者かから、指紋が視認できるほどの近さに人差し指を突きつけられてそう告げられたようで、少し気が滅入った。

 家族が増えたことに対する気分の高揚は、今のところそう大きくはない。嬉しい気持ちはたしかに感じているが、言動にはっきりとした影響を及ぼさない程度に過ぎない。

 人形やぬいぐるみをプレゼントされて大喜びした少女時代は、もはや遠い過去のことらしい。

 実感と喜びは、時間が経てば経つほど、咀嚼すれば咀嚼するほど滲み出てくるものなのだ。そう信じたい。

 束の間ぼんやりしてしまったせいで、具材に少し火を通しすぎてしまった。


 木製テーブルの中央には、ペペロンチーノとシーザーサラダ、二つの大きな器が並んだ。

 姫は不器用な手つきながらも、ペペロンチーノをフォークで巻いて口へ運ぶ。子どもらしく口元を汚しながら、黙々と食べる姿がほほ笑ましい。シーザーサラダも、ペペロンチーノに使われた野菜もちゃんと食べた。好き嫌いは、今日の料理に使った食材の中にはないようだ。

 食べながら、灰島家までの道中について尋ねてみた。好奇心があるからでもあったし、他に適当な話題が思い浮かばないからでもある。

 姫によると、運転手の女性は今日初めて顔を見た人間で、会話は一言も交わさなかったそうだ。車内での記憶はおぼろげで、トラックがどこから出発したのかも、移動中に自分がどんな気持ちだったのかさえも、覚えていないという。

 購入者との新生活に支障を来さないために、記憶を部分的に喪失させるような処置を施されたのかもしれない、とわたしは推察する。もし本当なのだとすれば、残酷なことだとも思うし、仕方がないことだとも思う。

 姫が道中で唯一記憶しているのは、窓越しに川が流れているのを見たこと。

 目撃したのはどの川だったのだろう? 聴き取り調査でもしてみようか。卵色のパスタをフォークに巻きながら考える。

 この町にはたくさんの川が流れている。わたしが知っている中に、姫が見た川があるとは限らない。そもそも、問題の川はこの町を流れていなかった可能性もある。

 やめておこう。

 心の中でつぶやき、丸めたパスタを口の中へと押しこむ。

 先ほど探検して得た、この家の印象についての話などを聞きながら、料理を口に運ぶ。胃袋が満たされるにしたがって、心が和み、ポジティブになっていく。

 姫のこと。ミクリヤ先生のこと。わたしにとって大きな出来事が重なったせいで、自分が思っている以上に心も体も疲れていたのだと、ようやく気がついた。


 食事が終わると、姫にリビングのソファをすすめ、テレビの電源を入れた。彼女が来てからずっと静けさが気になっていたし、姫のためにという思いももちろんある。

 液晶画面に映し出されたのは、バラエティ番組。現在流れているのは、芸能人がクイズやミニゲームを交えながら料理を味わうという、食事を済ませた直後には興味を持ちにくい内容のコーナーだ。

 ソファの前のガラス製ローテーブルにリモコンを置き、姫の隣に腰を下ろす。彼女の体は、匂いらしい匂いを発散していない。少女ならではの甘い匂いも、機械ならではの鉄の臭いも。テレビ画面を凝視する横顔は、楽しんでいるというよりも真剣で、ある種の積極性が感じられる。この世界のことを学習しようとしているのかもしれない。

 最近テレビによく出演している若手女優が、一口サイズの肉塊にフォークを突き刺した。自らの口へと運んで咀嚼し、大仰に目を剥く。味についての感想は中学生のように語彙が貧困で、視聴を続ける意欲がたちまち萎えた。

 小さく息を吐いてソファから立ち、ダイニングテーブルに移動する。姫はわたしを追視したが、すぐに画面に注目を戻した。椅子を引いて座ったさいにも、彼女はわたしを一瞥した。

 ジーンズのポケットから携帯電話を取り出すと、新着メール受信の通知が届いていた。そういえば、ミクリヤ心療内科で診察を待っているあいだに触って以来、一度も見ていない。内容を確認すると、

『祝当選!』

 本文冒頭に表示された一文に、思わず「きゃー!」という歓声を上げてしまった。視野の端で姫が振り向いたので、視線を合わせる。

「姫、朗報だよ。『犬祭り。』の『ふれあい会』に参加できることになったよ。競争率、凄く高かったのに当選したみたい」

 彼女の瞳に映るわたしは、きっと子どもじみた無邪気な笑みを浮かべているのだろう。

「いぬまつり? ふれあいかい? なにそれ」

「ああ、ごめん。姫は知らないよね。『犬祭り。』というのは――」

 個人的な趣味を無関心な他人に押しつける暴力性は、重々承知しているつもりだ。相手が機械の少女だとしても、その教訓は活かしたい。少し言葉足らずかな、くらいで留める慎ましさを心がけて、四日後に行われる「犬祭り。」について解説する。

「ようするに、『マジカルモンスター』の『マジケン』っていうキャラクターがこの町の遊園地にやって来て、その遊園地で『ふれあい会』っていう、マジケンと交流できるイベントが催されるということね。参加できるのは一組二名までだから、姫もマジケンと触れ合えるよ。どうする?」

「ナツキが行くなら、行きたい」

 即答だった。これまでのパターンから、多少なりとも考える時間をとると思っていたので、少し意外だ。瞳の奥を覗きこんだが、イベントに対する興味関心、嫌々命令に従っている気配、どちらも読みとれない。

「それじゃあ、いっしょに行こう。でも、『犬祭り。』が開催されるのは四日後だからね。それまでの三日間、なにかしたいことはある?」

「えっと――」

 突然、携帯電話が着信音を奏ではじめた。

 最初、「ふれあい会」の関係者かと思った。しかし、画面を一目見て、わたしは凍りついた。

 母親だ。

 わたしの、実の、母親。

 最近は毎日かけてくることもなくなっていたのに、今日に限ってかけてくるなんて。

「姫、ごめん。ちょっとテレビ観てて」

 早口で告げて椅子から立ち上がる。笑顔を向けたつもりだが、実際にはぎこちない、醜悪なものになったのだろう。姫は目を丸くしてわたしを見返した。

 着信音は鳴りやまない。

 廊下に出てドアを閉めたのを境に、心は急速に怒りの感情に浸食されていく。こんなことをしても無益どころか、姫に心配をかけてしまうからマイナスなのにと思いながらも、床板を踏み鳴らす歩きかたをやめられない。理性的ではない自分、下品な自分、幼稚な自分。

 バスルームに入ってドアを閉め、ロックをかけて密室を完成させる。通話ボタンをタップする。

『ちょっと、ナツキ。あなた、どうしてすぐに電話に――』

「うるせぇっ、ババア!」

 画面に向かって怒鳴りつける。あちらの世界にいる中年女が怯んだ気配が伝わってきた。

「かけてくるんじゃねぇよ、クソが。殺すぞ。死ねよ、ババア。わたしのところにかけてくるな。二度とだぞ、二度と。次かけてきたら、マジで殺すからな。死にたくなかったら、かけてくるな。ていうか、死ね! 死ねよ死ねよ、このクソ女! 次やったら殺す! 絶対に殺す! 一生涯わたしに関わるな……!」

 通話を切る。わたしは肩で息をしている。呼吸を整えているあいだ、常に換気扇が回る音が聞こえている気がしたが、錯覚だった。

 画面を食い入るように見つめる。いつまで経っても暗いままだ。

「……くそっ」

 バスルームから出る。靴下が濡れてしまったので、もぎとるように脱いでかごに放りこむ。もう終わったんだ、落ち着け。そう自分に言い聞かせながらリビングに引き返す。ドアを開ける直前になってようやく、足取りから荒々しさが消えた。

 姫はソファでテレビを観ていた。ドアを開けた直後の反応を見た限り、わたしの動向を気にしていたのは明らかだ。

「姫、ごめんね。心配かけちゃって。実は――」

 嘘は笑ってしまうくらいスムーズに口を衝いて出た。

「実はお風呂の調子が悪くて、修理業者の人とちょっと揉めていたの。姫が入るまでには直したいと思っていたから、つい感情的になってしまって。もうすぐ二十歳の誕生日なのに、わたしったら大人気ないよね。ほんとうに大人気ない。でも、もう直ったから安心して。お風呂にはちゃんと入れるから」

 姫は無表情に近い表情でそれを聞いている。言い分に納得したのか、していないのか。言い分を理解しようとしているのか、していないのか。

「お湯さえ入れれば今すぐに入れるけど、今日はどうする?」

 姫は十秒近くも沈黙したのち、首を横に振った。

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