第17話 哀しきブラッディー・マリー

1555年6月下旬のある夜


メアリー女王はベットに座ったまま、

背を向けて寝ている夫フェリペをぼんやり眺めている。


夢にまで見たスペインの若きプリンスとの結婚生活はもうすぐ一年が経つ。


・・結婚前は、寝る前にこの人の肖像画を見ているだけで幸せだったのに・・


夫の心にメアリー女王はない。


夫は今でも結婚当初から変わらず

女王に優しく寄り添っているが、

エリザベスで頭が一杯なのだ


・・そうに違い無い・・


女王はフェリペの背中に溜息をつく。


・・もう私は子供を産む事ができないんだ・・


妊娠したと信じた自分が惨めであった。

しかし、現実ならば、受け入れねばならない。女王であれば尚の事・・

・・


1555年7月

メアリー女王は妊娠は誤報と対外発表した


辛く勇気がいった。


しかし誕生発表から3ヶ月も音沙汰ないのはどう考えてもおかしいし、


過去は過去

いつまでも振り返らず

前を向いて、愛する夫と向き合わねば


しかし、そんな女王をロンドン市民は物笑いの種にした。


「女王は猿を産んだんじゃね?キャハハハ」


一方、スペイン王太子は異端裁判を凍結せざるを得なかった。


・・仕方ない、野蛮なプロテスタント教徒どもへの聖なる鉄槌は、世継ぎをもうけるまで我慢だ・・


英国をカトリック国に戻そうとしたフェリペ

には極めて不本意であったが

女王が孕んでないと判明しては、

市民を敵に回すのは得策ではない。


それにフェリペには差し迫った事情が頭をもたげ市民虐殺どころでなくなっていたのだ。

・・


再び、メアリー女王の寝室。


フェリペはゆっくり寝返り、メアリー女王に身体を向けた。


「そうだ、愛する妻よ、もう知ってると思うが、俺はこの8月にフランドルに戻るよ。」


メアリーは小さい声を絞り出した


「・・そうなの?・・」


フェリペは無視して続ける。


「フランドルに戻ったら、俺は父カール5世からスペイン王を譲り受ける。だから、今度会う時は、可愛いメアリー、あなたは、スペイン王妃なんだよ。」


メアリーの頬にスーッと一筋流れた。


「・・やだ・・」


・・フェリペがスペイン王なんて、どうでもいいの。ずっとあなたと居たいんだ・・


・・夫はやがて英国に戻ってくるだろう。

しかし、それではダメなんだ。

今、一緒にいて欲しいんだ

深く傷ついている今・・


何も答えぬメアリー女王に、

フェリペは、溜息をついて話を打ち切り、再び、女王に背中を見せた。


「Buenas noches(おやすみ)」

・・


フェリペは厳しい立場に置かれていた。


父である神聖ローマ皇帝カール5世は

フランスに敗戦

ザクセン公の裏切り


おまけにこの一連の敗北の代償として

アウグスブルグの宗教会議で

プロテスタント信仰を認可という

カトリックの守護神として

あってはならぬ恥を晒してしまった。


そんな最悪の時期に、父は退位を表明し、

息子フェリペに舵取りを任す。


フェリペ王太子は、

フェリペ2世と名乗り、スペイン王を

父から譲り受けた。


・・まずは、ドイツとフランスに挟まれた

ネーデルランド17州をしっかり守らねば・・


父カール5世は今か今かと、

ネーデルランドに息子を呼び寄せていた。


しかし悪い事は続く。


このタイミングで

反ハプスブルクの教皇が選出されたのだ。


1555年5月

コンクラーベで選出されたのは

新ローマ教皇パウロ4世。

本名ジョヴァンニ・ピエトロ・カラファ


「異教徒ルターを認めたって?そんな腑抜けが神聖ローマ皇帝でいいのか?」


と新教皇パウロ4世はカール5世批判を憚らない


しかもタチが悪い事に新教皇の本心は、

カトリックの復権ではなく

私利私欲を満たしたいだけ。


要は、自分の可愛い甥っ子にナポリを譲りたいのだが、ナポリを支配するハプスブルグが邪魔という訳だ。


そんな新教皇からすれば

スペイン王交代は

ハプスブルク家を攻撃する絶好のチャンス。


何故なら教皇には、

スペイン王を無効とする権限があるからだ。


フェリペは一刻も早くフランドルに赴かねばならない

・・


2ヶ月近く経過した

1555年8月29日

フェリペは船上の人に。

見送るメアリー女王の傍らには、エリザベスが寄り添う。


エリザベスは、あの夜以来、フェリペの意向で、軟禁状態から脱し女王の傍にいた。


船の上で、手を振るフェリペ。

しかし、その眼差しは、妻メアリーではなく、傍のエリザベスに注がれる。


こうしてフェリペは英国を去った。

・・


さてロンドン市民の毒舌は相変わらずだ。

新教皇の事情は既に伝わっていて、


「おい、あのスペイン男はカトリックなのに

教皇から破門されるかもよ!キャハハハ」


「パパから譲り受けたスペイン王位も

剥奪うぅ!って、間抜けな奴ぅ!」


「ヨーシ!俺が夫君に申し伝えよう、

もう我が国に戻るでない、分かったな異端者フェリペよ!」


「ギャハハハハハアァ!」


フェリペが居なくなり、もうフェリペの事しか頭にないメアリー女王


女王は、このロンドン市民の悪口を知った。


心を開く相手もなく、

眉間に皺を寄せ押し黙る日々。


かつて「私はロンドン市民の母だ」と訴え、市民の涙を誘った女王はもう居ない。


程なく女王は2法案を強引に承認させた


①英国政府が没収したカトリック教会の財産を、ローマ教皇に返還する

②英国から逃亡した者は財産を没収する


とんでもない法案だ。

貴族議員達は激昂する


「新教皇パウロ4世に媚びを売り、英国の貴重な財産を献上するとは!」

「スペイン王フェリペの指図なのか!」


「逃亡者の財産没収とは何だ?」

「どうして市民は逃亡するのか?」

「女王は一体何を始めるつもりなのだ?」


女王は反対した議員を逮捕し、

強引にこの2法案を通過させた。


こうして準備を整えた女王は市民に報復する。

凍結していた異端裁判を復活させたのだ。


議員達は、ここで初めて新法の意味を知り後悔し恐怖した。


市民は国外逃亡を図ろうとしても財産没収を恐れ英国に留まる者が多かったからだ


大勢が公開処刑された。


火炙り、

切れ味の悪い斧、

車裂き、


夥しい血潮、

阿鼻叫喚・・


女王は市民を許せなかった


後悔?

もう遅いよ。


怪物ブラッディー・マリーは誕生してしまったのだから。

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