第15話 Ave Maria(アヴェ マリア)

1554年11月24日

ロンドンホワイトホール宮殿の謁見の間から

透き通ったソプラノヴォイスが響き渡る


「恐れる事はないのです、我が娘よ!」


その声の主の前に

英国女王メアリーと

スペイン王太子フェリペ夫妻が

平伏している。


「そなたは神に祝福されているのですから。安心して神の大いなる計画に委ねるのです。」


英国女王夫妻を跪かせる程の権力者。

一体誰であろうか?


身に纏っているのは典礼服。

なので聖職者ではあるのだが特筆すべきは

その色だ。


黒でも白でもなく


“カーディナル・レッド”


この独特な赤い色に包まれる事を許された聖職者は限られた者であり、英国にはいない筈。


間違いない、

ローマ教皇に仕える枢機卿だ。


「そなたには、聖ルカの一節、天使ガブリエルがマリアに伝えた言葉を授けよう」


と伝えると、

この3名しかいない広い謁見の間で


枢機卿は、目を閉じ右手を下腹に当てて

ゆっくりとソプラノのキーを上げ、

遠くまで響き渡る声で祈祷を始めた。


「Ave Maria, gratia plena,・・」


“Ave Maria(アヴェ、マリア)”とは

聖母マリアへの呼びかけ


処女なのに、

見覚えが無いのに、

お腹に子を身籠もり恐れをなしているマリアに

天使ガブリエルが優しく宥めた言葉


そして

“マリア”の英語読みはメアリー。

ラテン語を解する女王は、枢機卿が自分の名を呼んだと感極まる。


「・・ Dominus tecum,

benedicta tu in mulieribus,


et benedictus fructus ventris tui Jesus.


Sancta Maria mater Dei・・,」


・・

数日前に遡ろう。


フェリペが英国に到着してから4ヶ月後に、

女王につわりの兆候が現れた。


フェリペは

女王との夜は成功したと確信する。


女王は37歳と高齢で出産は難しいと思われたが奇跡がおきたのだと。


しかし女王の心は乱れた。

「本当に子供ができたのだろうか?」


夫フェリペは女王に寄り添い、労り、優しく声をかけ続ける。


日に日にお腹も出てきたとも感ずる。

なのに女王の不安は解消されない


フェリペも心配し始めた。

・・この出産が失敗すれば、メアリーとの子宝は望めないであろう・・


子宝無くして英国をスペインに飲み込むのは難しい。女王との子は、フェリペの大いなる計画の大事なピースだ。


フェリペはメアリーの心の安寧の為に、

いや、

つまらない理由で流産を避ける為に、

うってつけの人物をローマで探し当てた


それがレジナルド・ポール枢機卿。

彼は枢機卿の中でもローマ教皇と張り合える程の実力者だけでなく、チューダー家の者。


ポール枢機卿は女王の父である前英国王ヘンリー8世の従兄なのだ。


遡る事30年前、

英国王ヘンリー8世はポールに命じる。

「ポールよ!ローマ教皇の元へ走れ!

(メアリーの母キャサリン王妃との)離婚許可を得るのだ!」


ポールはチューダー家とはいえ、カトリック教徒の聖職者。


”カトリックは離婚は許されぬ“

と、ヘンリー王の命令を拒否すると、

英国から追放されてしまう。


そう、ポール枢機卿は

メアリー女王の母を体を張って守ろうとした身内の者


であれば、“今は” 大事な妻メアリーの心の支えになるであろうと


夫フェリペがローマから呼び寄せたのだ。

・・


再びホワイトホール宮殿内謁見の間。


枢機卿の澄みきった祈祷中

女王はスペイン語でフェリペに囁いた。


「愛する夫よ。ま、間違いないわ。私は、あなたの子を身籠っています。」


メアリーの涙は止まらなかった。


優しく手を握ってくれる若い夫

そして

枢機卿による祈祷 “受胎告知”


これ程の幸せが、今迄の女王の人生で過去あったであろうか?


メアリーはこの時

女王としての重圧から解放され、

一人の女性として、愛する夫の子を授かる喜びに溢れる。

・・


この日を境に、

フェリペは、化けの皮を剥がした。


それまでは

笑顔を絶やさず

威張らず、

配下のスペイン兵の狼藉を許さなかった

女王の良き夫を演じていたが、


しかし今、

妻である女王がスペインの子を宿したのだ。

恐れるものはない、遠慮は要らぬのだ。


・・この国をカトリックに戻し、

プロテスタントのクズどもを根絶やしにする時期が到来したのだ・・


フェリペは優しい口調で

メアリー女王に指示する


・・神の怒りを鎮めよう!

生まれて来る赤子の為に・・


12月に入ると

メアリー女王は

異端取締法を議会に諮らせた。


異端取締法?

本当か?いつの時代なのか?

議員達は訝しむが

特に反対もなく制定してしまう


そして年が明けた1月 

フェリペは容赦せず200名以上も検挙し連行した


裁判員は

カトリックへの再改宗を迫る。

拷問も辞さなかった。


それでも拒否した者には、火炙りの刑に処した


異端裁判の判決文の署名は

フェリペ個人だけではなく

メアリー女王夫妻の連名。


議員達はここに来て反対票を投じなかった事を悔やむが手遅れだった。


火炙りの刑は、紙切れだけでなく

本当に執行されているのだ。


それも身分が低いものだけで無く

議員達の友である貴族も、聖職者も。


彼らは死に行く前に

ラテン語ではなく、

自国の誇り高き言葉、

“英語” で神への言葉を叫び炎に殉ずる。


家族も泣きながら手を繋いで黒焦げに変わり果てていく姿を見守った。


こんな断末魔の叫びの中で、

つわりの苦しみと新たな魂を身体に感じ喜ぶ女王メアリー


1555年の始まりは、

暗黒の中世に戻された民衆の悲しみと

次世代に託す女王の喜びが錯綜した。

・・


3月になった


エリザベスは、未だウッドストック宮殿に幽閉されている。


メアリー女王が懐妊した事実も伝わっている。

女王が無事出産すれば、エリザベスに未来はない。


このままでは、スペインから来た婿フェリペの目論見通り、

英国のプロテスタントは根絶やしにされ、

エリザベスはロンドン塔で処刑、いや、魔女と看做され火炙りかもしれない


うつらうつら物思いに耽るエリザベスに、監視役のヘンリー・ベティングフィールド卿がやってきた

「エリザベス様、メアリー女王陛下からです。」


と、エリザベスに手紙を差出す。


「珍しい事です。枢密院からではなく、女王陛下御自らとは。」


エリザベスは平静を装い封を開ける


・・急ぎ、ロンドンに来られよ・・


エリザベスは天を見上げた


・・ついにきたか・・


エリザベスは死を覚悟した

・・


翌日、

エリザベスは慌ただしく

ロンドンに向け出発した。


すると近くの教会から

「Ave Maria, gratia plena,・・」

と合唱が聞こえて来る。


3月25日は “受胎告知” の日。

イエス生誕の9ヶ月前に天使ガブリエルが聖母マリアに神の子を孕んでいると伝えた日。


プロテスタントでは無視されるこの日は、

ローマカトリックでは重要な祝祭日


・・あゝ、Ave Mariaか、、・・


・・この国はついにカトリックに染まったのか?・・


しかしエリザベスは、気持ちが折れてはならぬと言い聞かせ歩を進める。

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